こうして、加藤はシャバに出た。
しかし、勿論、無罪放免というわけにはいかない。自らの私的事由によって、無断欠勤したのは事実であり、少なからず他方にわたり迷惑をかけ、さらに嘘に嘘を重ねた。然るべき責は負うべきであり、保護観察処分のもと、相応のペナルティは課した。
読み終えたあとの感想は多岐にわたると思う。笑い飛ばす人もいれば、強めの冷笑を浴びせる人もいるだろう。真面目だなあ、と逆に感心する人も中にはいるかもしれない。しかし、いずれにせよ、ほとんどの読者が感じるように細部に目を凝らせば、様々な疑問が浮かぶ。
例えば、何故彼は「年金未納 犯罪」で検索し、調べようとしなかったのか?「犯罪ではありません」という解は容易に得られたはずで、無断欠勤に至るほどの半狂乱は防げたはずだ。
このように小さな疑問は山ほどある。上記については「思い込みの激しい性格によるもの」という理由で解消される(ユビキタス社会の挫折とも言える。IT革命は彼を取り残した)のだが、ただ、その一つ一つを紐解いていっても、この狂騒曲の本質には迫れない。
では、本質はどこにあるか?
ずばり「まわりから認められたい」という承認欲求に根本があると僕は思っている。逆に言えば、その反対の現象や事態を何よりも恐れる。軽蔑や侮辱の類は勿論のこと、馬鹿にされることや軽く見られることを極端に嫌い、強引に避ける(いじられることは好きみたいで、そのあたりがややこしい)。今回の場合、「年金を未納している自分を周囲に知れたら、どれだけ見下されるだろう」という恐れが今回の犯行に及んだ本質的な動機だろう。
平たく言えば、「プライド」だ。
生きていく上でプライドはある程度必要で、そして、誰にでもあるものだ。当然、僕にもある。プライドも、承認欲求も厳然として、ある。けれど、最近思うのは「適量だけあればいい」ということ。必要な栄養素ではあるけれど、数多くある成分の中の一つにすぎず、どんな栄養素であれ、過剰摂取は逆に毒だ。プライドを先行させて、大成した人がどれだけいるだろうか。僕の知る限りではそれで成功したのはベジータくらいだ。世にはびこる争いや、混乱のほとんども結局はここに由来しているように思える。
プライドと言えば聞こえはいいけれど、結局、比較論の中で浮き沈む「見栄」に過ぎない(超一流の方々は違うかもしれないけど)。「こうすればカッコいいと思われる」、「ああすればすごいと褒めてくれる」という幻想はX軸とY軸を無限に広げていく。どこまでいっても上には上がいて、どこまでいっても「見栄」を追い続け、追われ続ける。
「そんな座標、いったん捨てちゃいなよ」と僕は加藤に言い続けてきた。今はまっさらにした方がいいと思うからだ。また必要になったら、その時、新しい座標軸を用意すればいい。かつての成功も失敗も、ポジティブな青春時代も、ネガティブな過去も今は一度畳もう、と。
なにか粗相をやらかす度に「いいか、加藤、ここがゼロだ」(『ONE PIECE』魚人島編から引用)と日高屋や鳥貴族で再三に渡り、繰り返してきた。僕自身も「ゼロ」の経験はこの15年の間に何度かある。まったくの「ゼロ」ではなかったかもしれないけど、それに近い状況の中で、たまらなく情けない気持ちになったこともあるし、単純にボコボコにされたこともある。
だから、その座標や束縛から脱するのが容易ではないことは知っている。実際、「ゼロ」には踏み切れず、悶々とした日々が悶々と流れていった。居酒屋での「ここがゼロだ」の通達はやがて虚しさを帯び、「どこがゼロだ?」を模索するようになっていった。
暗礁に乗り上げていた矢先に今回の事件が起こった。
加藤の過剰なプライドが引き起こしたと言える。
この物語は「何故、無断欠勤したか」をめぐるミステリーでありながら、その罪を裁く法廷でもある。加藤は連日の投稿と傍聴席の反応を伺いながら、神経を擦り減らした。そして、その消耗は当面の間続いていくだろう。けれど、これだけ白日の下に晒して、他に怖いものなどあるだろうか?このあとに残るのはひたすらの加算しかないように思える。
それを証拠に本人自身、「でも、本来の自分が戻ってきたような気がします。何だかスッキリしました」とも陳述している。
本日は加藤の28歳の誕生日でもある。
ゆえに、この法廷は最終的な判決を言い渡すとともに、誕生日プレゼントを言葉にのせて贈る。
「おめでとう、ここがゼロだ」