「ヤマモトさん!!、オレ、金持ってないっすよ!!」
加藤はヘルメットを被りながら、大声で俺に言った。
「大丈夫!!着いた先で俺がまとめて払う!!」
この時、“財布からお金を出し、加藤に渡す”というほんの数秒を正しく費やすことができれば、また違った展開になっていただろうが、これを怠ったことにより僕は厳しく追いつめられることになった。
マリオットホテルから、マリオットホテルへの移動。移動距離はごくわずかで、時間にしてせいぜい5分超といったところだろう。
加藤の方が先に走りはじめ、僕がその後を追う形になった。はじめは「僕ら、携帯を持ってないからはぐれないようにしてくれ」ときちんとドライバーに伝えていたが、今回は焦りすぎてそれを言うのを忘れてしまった。けれど、はぐれるにはあまりにも距離は短い。そして目的地はオマージュもメタファーも飛び越えて、寸分の狂いもなく、2000%、すぐそこに聳え立つ「マリオットホテル・トンロー」なのだ。間違えようがないし、はぐれようがない。
が、はぐれた。
僕が後ろにいたはずなのに、マリオットホテルのエントランスに着いた時、加藤の姿が見当たらなかった。時計を見ると、19時09分。
そんなはずはない、と叫んだところで、寸分の狂いもなく、2000%、加藤の姿が見当たらない。
僕らはその時、Wifiを持っていなかったので通信手段はなかった。そして、加藤は絶望的に金を持っていない。彼の有り金は全てOUKYという、イケてるイカしたTシャツにつぎ込んでしまった。150円ほどのタクシー代すら払えない。地理感覚も絶望的にないし、そもそもここがどこだかもまるでわかっていない。おまけに、加藤は絶望的に英語を話せない。この難局を打開できる手立てを彼は何一つ持ち合わせいなかった。
せめてあの時、金だけ渡していれば…、と思うが後悔は先に立たない。血の気が引き、冷や汗が全身から溢れでる。
ダメだ、どうにもならない。
*「もうダメだ」で画像検索したら、上記の画像を見つけた。拝借します。
「イイデスカ、ミナサン、デキレバ20時にはいるよーにお願いしマス」、と初日にバスのガイドが繰り返しアナウンスしていた言葉がこだまする。19時13分。4分もの間、僕は何もできずに半べそかきながら、マリオットホテルのエントランスに立ち尽くしていた。
いや、まだだ。
とりあえず、通りに出て、エントランスの様子を伺いながら、視界を広くとれるようにしよう。
マッサージ屋で15分という時間を捻出したのは正解だった。全体で考えてもタイトなスケジュールで進めてきたが、とは言え、無駄に浪費した時間もけして少なくはない。何故、最後の最後でこんな苦境に立たされたのか。それはひとえにほんの少しずつの無駄がほんの少しずつ蓄積されて、「今」を圧迫しているのだ。この3日間のあらゆる「無駄」が走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
いやいや、振り返るな。
考えろ。
19時16分、今は「今」を考えろ。
活路は必ずどこかにあるはずだった。ルーフトップバーは諦めるとして、加藤が機転をきかすことができれば、そのままホテルに向かうだろう。俺を待つか、ホテルに集合してる日本人に助けを乞うはずだ。どうする?、俺もホテルに向かうか。どうする…?
こうなってしまってはまるで使い物にならないiPhoneを両手の手のひらで挟み、目をつぶり、思考を集中させた。全霊をかけて、僕はこの難所を乗り越えてみせる。
「ヤマモトさん、何やってるんですか…?」
目を開けると、眼前に加藤が立っていた。心の底から安堵した。19時18分。
この20分の間、加藤に何が起こったのかを聞くのは後回しに、ドライバーに運賃を払い、お金を渡さなかったことを加藤に詫び、僕らはルーフトップに向かった。
19時21分、視界いっぱいに魔都バンコクが思いきり広がっていた。
メニューリストを殴り読みして、お店で1,200円で販売しているBrew Dog Punk IPAを1,200円で注文した。
運ばれてくるなり、すぐに飲み干す。19時28分、Check。滞在時間7分。
マリオットを飛び出て、タクシーに飛び乗る。
車内、顛末を聞く。加藤のバイクタクシーはエントランスではなく、通りに面した場所に停まった。俺が来るのを待っている間に俺を降ろしたバイクタクシーが他の客を乗せて、彼らの前を通過した。ドライバーはそれを見て「おまえの友達が乗ってるぞ」と加藤を後部座席に乗せて、猛追する。追いついた時、後ろに乗っていた客が俺ではなく、現地人だということに気付き、二人は戦慄した。
「ゴー・バック!!ハーリー!!ハーリー!!」
加藤はドライバーに戻ることを指示する。ドライバーは面舵いっぱい、逆走するように歩道を激走したと言う。
そして、加藤は両手の手のひらを合わせながら、目をつぶる俺の姿を発見した。
「ヤマモトさん、何やってるんですか…?」
と、そういう次第だ。
「“お悔み”とか“祈り”とか、そういうことなのかなって思いましたよ。成仏しろよ、みたいな」
いやいや、俺は活路を見い出すために必死に考えてただけだ。精神を集中させていたという点においては彼と相違ない。
「間に合いますかね…?」
「間に合うよ。断言する。トラブルはもうない。我々は20時までにホテルに戻る」
19時57分、タクシーは宿泊していたホテルに到着した。
「ミナサン、帰りはホテルに20時15分シューゴーです。デモ、遅れるといけないカラ、デキレバ、20時にはいるよーにお願いしマス」と初日、送迎のバスの中でガイドのタイ人がそう言っていた。
この画面をスクリーンショットしたのは初めてだ。
そして、このスクリーンショットを記念に自撮りしたのも初めてだ。
「イイデスカ、ミナサン」とガイドは言う。
「デキレバ20時にはいるよーにお願いしマス」。
仮に集合時間が20時15分だとしても、
彼がそう言うのであれば、20時にはいるようにするのが紳士だ。