国民年金?
「起承転結」の「起」からしてこの摩訶不思議。僕は長い夜になることを覚悟した。このあと加藤の口から語られる一大叙事詩がどのような「結」を迎えるのか、全く予想だにできなかった。「国民年金未納」に始まり、4日間の無断欠勤に至るまで、一体彼の身に何が起こったというのだろうか…。
…。
…。
「で?」
「で、ですから、この8ヶ月間、国民年金を払ってなかったんです…」
「うん、それはわかった。で?」
「で?、とは?」
?
?
「え?」
「え?」
事態が全く飲みこめなかった。どういうことだ?
「終わり?」
「はい」
「“結”?」
「ケツ?」
…。
…。
「そ、それが、無断欠勤とどう関係するの?」
「だって、国民年金ですよ!!」
と加藤は語気を強めた。
「いや、だから国民年金でしょ…?住民税は払わないと差し押さえが来るよ。まあ、そのうちだし、そもそも差し押さえられるようなもの、加藤、持ってないだろうけど…。住民税じゃなくて?」
「住民税は払ってます」
「じゃあ、国民健康保険は?払ってないと保険証が交付されない。その状態で病院に行くと10割負担になる。それで困ってるとか?」
「国民健康保険は払ってます」
「じゃ、じゃあ、年金は…?」
「払ってません!!すいませんでした!!」
「すいませんでした!!って言われても、別に俺は…」
「だって山本さん、言ってたじゃないですか!!」
事の顛末は以下のとおりである。
僕とお客さんとの会話の中で「年金」の話題になったことがあった。その際、「まあいろんな問題と意見があるだろうけど年金は払わなきゃね」という僕の個人的見解を加藤は聞いていた。「個人の問題と言えば個人の問題だけど、みんなそう思っちゃったら大変なことになっちゃうんだからさ。どうせ受け取れないから、とか、俺は要らないから、とか、そういうことじゃないと俺は思うけどなあ。きちんと払ってる人がいる以上、払ってない人が払ってる人に迷惑かける道理はないでしょう?」。
そうした僕の私的な意見が知らぬ間に加藤に突き刺さってしまっていたようだ。助手席のシートをバッタリ倒したら、後部座席に座る加藤の顔面に激突、シートに寝そべる僕は後ろで彼が激しい鼻血を流していることに気付かない。
さらに加藤は僕に「年金はきちんと払っている」という嘘をついていた。つまり、“年金に対してそうした考えを持っているオーナーの下で自分は未納”で、加え“ちゃんと払っているという嘘をついている”という2つの背信が自身の精神を蝕ませた。そして、追い討ちをかけるように年金事務所からの催促の電話がかかる。借金苦の業火に焼かれている(と錯覚している)彼の盤面からすれば、その電話はまさに王手飛車取りの痛恨の一手となった。
事件当日の出勤前、彼は覚悟を決めて、年金の納付書(払込用紙)を整理した。通常、一年分まとめて送られてくるし、月毎、四半期払い、一括払いとそれぞれに用意されるため、まずその枚数と分厚さに加藤は圧倒された。さらに彼はその一枚一枚を丁寧にベッドの上に並べるという奇行に出た。そして、納付書に埋め尽くされたベッドに加藤はいよいよ絶望した。自らのハートを、自ら手で、詰んだ。
もうこの業火から逃れることはできない。かと言って、今さら山本さんにも相談できない、かと言って、このままお店にいても火の手はのびるばかり…、という、おそらくは1億2千万分の1のヒステリーを起こしてみせたのである。
どうしよう!!
落ち着け!!やばい、そろそろ出勤の時間だ!!まずはいったん!!
「今日、昼から病院いってて、ちょっと長引きそうです。遅れて出勤しても大丈夫でしょうか?」
と腐り、
からの、
「もう疲れました。すいません」
という最果てへと至った。
「あ、あのさ、じゃあ、お店とか仕事とか俺がやんなったとかそういうのじゃないわけ?」
「いえ、全然そういうんじゃないです」
と彼はきっぱりと言った。何言ってんすか?、と言わんばかりの気迫に逆に僕が押されたほどで、その目は未だかつてないくらいに清らかだった。
「ち、ちなみにこの4日間、何してたの?」
「コンビニに弁当買いに行く以外はずっと部屋に…」
「へえ…」
あの狭い部屋に96時間、引きこもれる根性があれば何だってできるような気がするけどな…、と思ったけれど、口には出さないようにした。貴公子に軽率なアイロニーは禁物だ。
「…」
「…」
「腹、減ってる?今日のランチの余りがあるけど」
「いいんすか?」
「いいよ、たくさん余ってるから」
加藤はてんこ盛りのガパオにがっついた。
まるで取調室でカツ丼を差しだしてる気分だ。ああ、あれは吐かせる前に出すんだっけ?
彼の自供をそっくりそのまま信用していいものだろうか。
当然、その疑惑は残る。けれど、これが嘘であれば、それはそれで天晴れだ。俺はあらゆるパターンをシミュレートしていた。どんな回答が用意されようが毅然とした態度で臨むつもりでいた。しかし、彼はその全てのシミュレーションをくぐり抜け、前代未聞の珍解答をこさえ、そして俺は前代未聞の肩透かしを食らわされている。たとえ真実であれ、嘘であれ、見事な一本と認めざるを得ない。そんな彼を刎ねたら、野暮は俺ではないだろうか。
「返してもらった鍵、返すよ」
こうして、加藤はシャバに出た。