Journey×Journeyと山本ジャーニーの冒険-独立・開業と「旅食」の航海日誌-

秋葉原の多国籍・無国籍のダイニングバー「Journey×Journey」。独立開業までの過程とオープン後の日々を綴る、山本ジャーニーの営業日報。

4月22日の8周年はウーロンハイ50杯と「面白美味しい料理」。

4月22日の土曜日に久しぶりに周年イベントを開催します。18時半~22時まで、本店で、エントランスで2,000円(FOODはてんこもり用意します)、ドリンクは1枚500円、5枚綴りで2,000円とさせていただきます。昔は飲み放題でしたが、すいません、昨今の諸々の事情を考慮し、ご考慮いただければと存じます。

考えてみたら、自分、長い間、「夜」の時間をゆっくり過ごしておりません。勿論、休みの日に飲みに行くことはありますし、たまに旅行にも行ってます。なんなら、2012年の世界一周中は365連休をとり、365日間、ゆっくりとした夜を過ごしました。だから、全くないわけではないですが、それ以外、大学卒業後、今に至るまで、「夜」の時間、働き続けております。会社員時代も、フリーター時代も、一周後のベンチャー時代(この時は会社の飲みも多かったけれど)も、PUSHUP(独立直前の飲食店時代)も、「夜」、働き続けてます。

つまり、飲むのは大好きなのだけど、意外と飲みに行ってないのです。物理的にも、経済的にも行けないのです。世界一周前は一周のお金を貯めるのに必死、一周後は独立のための貯金で必死、独立後はお店を存続させるために必死。残念ながら、いつも必死。当然、夜遊びはほぼ皆無、日髙やに行くのが精一杯といった案配だったので、「行きつけ」と言える店は今までなかったですし、勉強のために通った店というのもありません。お店が少し落ち着いてきて、あるいはコロナの影響で、逆に飲みに行く機会を持てるようになり、ここにきてようやく、店員さん、お客さん含め、顔馴染みとなるお店が少しだけできました。我ながら、よくそんなんで個人店を継続できてるなと思いますが、情報をあれこれインプットしすぎると、あれこれ考えちゃって、逆に自分や自店のスタイルを確立できなかったかもなとも思います。

したがいまして、今さらですが「周年イベント」とかよくわからないのです。「周年」という言葉もお店を始めて、初めて知りましたし、行ったことありませんでした。周年イベントは何らかを何らかの形で安くして、その代わりじゃないけど、シャンパンやスパークリングをお客さんに入れてもらう、みたいな流れが世の中にあるということを、全く知らずに生きてきました。なんなら、ゲストが店員さんに「一杯奢るよ」みたいな文化や慣習(そしてマネタイズ方法)があること自体、お店を始めるまで、見事に全く知りませんでした。「い、いや、いいよ!俺、仕事中だし、このあともまだ仕事あるし」って、初期の頃、お客さんに真顔で言ってました。言っちゃってました。「誕生日イベントとかやらないんですか?」とゲストやスタッフに言われた時も「な、なんで、自分やスタッフの誕生日を祝いにきて!、なんて言えるの?」と、本気で思ってました。今となって、なるほど、そういうことなのねー、という感じです。

それを知ってしまった今、今までそれを知らずにやってきた周年イベントをそのまま同じような感じでやるのってどうなんだろうか、とちょっと思ったりもしますが、せっかくなので、このまま、そのままのスタイルでやれたらいいなと思います。


冒頭の重複となりますが、


「エントランスで2,000円(FOODはてんこもり用意します)、ドリンクはチケット制で1枚500円、5枚綴りで2,000円と致します。昔は飲み放題でしたが、すいません、昨今の諸々の事情を考慮し、ご考慮いただければと存じます」、


と、させていただきます。「周年と言えばモエ、あるいはヴ―ヴ、2万くらい普通っしょ!」という感覚をお持ちの方がいらっしゃるようであれば(モエもヴ―ヴももう古いのかもしれないけど)、400円のウーロン杯を50杯分ふるまっていただき、みんなでパーッと乾杯したいです。よくわからない数杯のシャンパンよりも、50杯のウーロンハイでの乾杯の方が面白いし、独創的だと個人的には思ってます(50人来ないけども…)。


というわけで、4月22日、8周年、そんな感じで、皆様お待ちしております。


いやはやしかし、ほんとに知らなかったなー。そういうもんなんだねー。でも、他のお酒を飲んで、すでに酔っ払ってる時のスパークリングって美味しいかなー。


とは言え皆様、今までよくわかってなくて、なんかごめんなさい。同時に皆様、今までなんかありがとう。22日はJ×Jならではの料理をたくさん作って、J×Jならではの、周年イベントならではの、「面白美味しい」を楽しんでいただけたらと思ってます。


そして、皆様、これからもどうぞよろしくお願いします。





1978年4月1日とマジカルリアル。

1978年4月1日。

今から45年前の4月1日ということになる。Wikipediaによると、1938年の4月1日には国家総動員法が公布され、1940年には源泉徴収が始まっている。少し時を経て、1976年の同日にはスティーブ・ジョブスAppleを成立し、1979年にはイラン革命が起こっているが(ちなみに翌80年の4月1日は松田聖子がメジャーデビューしている)、1978年4月1日についての記述はない。特にこれと言って何もない、平和な4月1日だったのだと思われる。

1978年4月1日、神宮球場でヤクルト・スワローズの先頭打者であるデイヴ・ヒルトンが2塁打を打った。その2塁打を見て、作家村上春樹は突然、小説を書くことを突然思い立ったという。以下、Wikipediaより引用。
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1978年4月1日明治神宮野球場で行われたプロ野球開幕戦、ヤクルトスワローズ広島東洋カープ戦を観戦していた村上は、試合中に突然小説を書くことを思い立ったという。それは1回裏、ヤクルトの先頭打者のデイヴ・ヒルトン二塁打を打った瞬間のことだった。当時ジャズ喫茶を経営していた村上は、真夜中に1時間ずつ4か月間かけてこの小説を完成させた。村上にとってまったくの処女作である。

後のインタビューによれば、チャプター1の冒頭の文章(「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」)が書きたかっただけで、あとはそれを展開させただけだったと語っている。村上自身は小説の冒頭を大変気に入っており、小説を書くことの意味を見失った時この文章を思い出し勇気付けられるのだという。また、最初はABCDEという順番で普通に書いたが面白くなかったので、シャッフルしてBDCAEという風に変え、さらにDとAを抜くと何か不思議な動きが出てきて面白くなったとも述べている。妻の「つまらない」という感想に従って、頭から全体的に書き直している

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よくわからないけど(素敵な奥さんだ)、その後、村上春樹は小説家として小説を書き続けている。間もなく6年ぶりの長編も刊行される。まわりくどい言い回しや、鼻につく文体、不必要(と思われる)な性描写が多く、しっかりした一定数からしっかり嫌われている村上春樹だけども、村上春樹以降、村上春樹以上に有名な作家が出てきてないのも事実だし、とにもかくにもノーベル文学賞の候補にまでのぼりつめてるのも事実。僕としては是非受賞してほしいと思うけれど、時代が進めば進むほど難しくなりそうだなとも感じる。何と言っても不必要(と思われる)な性描写が多い。

ハルキストであれば上記、神宮球場での話は有名なんだけど、2塁打を放ったデイヴ・ヒルトンのことも気になる。一人の一解釈はあくまでその人の解釈にすぎず、情報や客観とは到底呼べない。それを「情報」とするならば、それを「客観」としたいのであれば、複数の角度と視座を持つことが重要であると思う。村上春樹に突然小説を書かせたデイヴ・ヒルトンという選手は一体どんな人間だったのだろうか?

彼のWikipediaもある(彼は2017年に67歳で亡くなっている)。
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1971年1月のMLBドラフト1巡目(全体1位)でサンディエゴ・パドレスにで指名され契約。1972年9月10日の対アトランタ・ブレーブス戦で、7番・三塁手として先発出場しメジャーデビューを果たし、5回裏にロン・リードからセンター前にメジャー初安打を放った。1976年オフに金銭トレードで、ジョン・スコットらと共に新球団トロント・ブルージェイズへ移籍した。その後、クリーブランド・インディアンスへ移籍したが、メジャー昇格は果たせなかった。

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978年春季キャンプヤクルトスワローズのテストを受けて合格し、入団。主に1番を打ち、開幕から首位打者を争うほど高い打率を残し、ヤクルトの球団創設初優勝、そして日本一に貢献。

背中を屈めた極端なクラウチングスタイルの打撃フォームが特徴の選手だった。常に全力疾走するなど気迫あふれるプレーを見せた。守備面ではスローイングに難があり、当初のポジションは遊撃手だったがシーズン途中で二塁手コンバートされている。

1979年は成績が低迷してオフに自由契約となるが、阪神タイガース監督のドン・ブレイザーが獲得を希望し入団する。しかし、阪神には1979年のドラフト会議で大阪出身の早稲田大学岡田彰布が指名を受けて入団しており、ファンは岡田の起用を強く望んでいた。

1980年のシーズン開幕後から、ブレイザーはヒルトンを起用するが、ブレイザーは岡田の起用を望むファンやマスコミから総攻撃を受け、ヒルトンもそのあおりを受けて打席に立つたびに岡田コールやヤジを浴びせられることとなる。結局、ヒルトンは打撃不振でシーズン途中の5月10日に解雇され、ブレイザーも5月15日に解任された。2017年9月17日、自宅のあるアリゾナ州で亡くなったことが地元新聞社によって報道された。67歳没。

作家の村上春樹は、1978年4月1日神宮球場プロ野球開幕戦、ヤクルト対広島戦を観戦中に突然小説を書くことを思い立ったという。それはヒルトンが先頭打者として二塁打を放った瞬間のことであった

当時ジャズ喫茶を経営していた村上は、できあがった小説『風の歌を聴け』を「勢いのようなもので」文芸誌の新人賞に応募。翌年1979年に同作品が受賞したことにより、作家としてデビューすることとなった。また村上は、1978年の日本シリーズ直前に渋谷区広尾のスーパーマーケットの近くでヒルトンに会ったときの思い出を、「デイヴ・ヒルトンのシーズン」というエッセイの中で語っている

ヤクルト時代の同僚八重樫幸雄は、ヒルトンについて「ボロボロのグラブを大切にしながら、常にガッツで頑張った。ハートの強さとハングリー精神」に溢れた選手だったと振り返っている
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4月1日になると毎年、このエピソードを思いだす。この日、神宮球場でデイヴ・ヒルトンが打った2塁打を見て小説を書こうと思った村上春樹と、この日、神宮球場村上春樹に小説を書こうと思わせたデイヴ・ヒルトンの2塁打にはどんな相関があったのだろう。何がどのように作用したのだろう、と。けれど、実際的には「相関」も「作用」もなく、あらゆる因果を超えて、ただ単にマジカルなことが起こっただけなのかもしれない。何がどこでどうなるのかなんて誰にもわからない。

2004年12月、ちょうどスマトラ島地震が起こる直前、バラナシというインドの街でインド人と村上春樹の話になった。彼もまたハルキストで僕がハルキストだと言うと、大いに盛り上がったのだけど、その時、彼は「ハルキ・ムラカミは世界で唯一マジカルリアルを書ける人間だ」と言った。マジカルリアル。素敵な言葉だ。


何がどこでどうなるかなんて誰にもわからないし、このエピソードを思い出す度に、今この瞬間どんなマジカルリアルが世界中で起こっているのだろうと思う。全て、とは言えないが、基本的に可能性はオープンだ。そして、そんなことをそんなふうに思うのに4月1日というのはぴったりな日付であるように感じる。






「なんだよ!やってないのかよ!」

J×Jは間もなく8周年を迎えます。最初のレセプションを行ったのが2015年の3月28日(土)で、グランドオープンが4月1日(水)なのですが、どちらを誕生日とすべきなのかよくわからないまま、8年間ふわっとやり過ごしてきました(一般的には4月1日ですかね、どうなんでしょう)。多分、このまま「この日」とは定めず、ふわっとさせ続けるのだと思います。一方、そんな具合で適当な割には「周年」にはそれなりの思い入れもあって、毎年、4月の土曜日にイベントは開催してましたし、その前後には近隣のお客さんに向けて感謝フェア的な催しも続けてきました。

3年前にコロナが始まって、その流れが途切れました。今、J×Jも遅ればせながらようやく元の日常が戻ってきましたが、3年も経てば、コロナ関係なく、様々なものが自然と移ろいゆくわけで、自分の考え方も、人間関係も、取り巻く状況も、為替も、玉子の値段も良くも悪くも色々と変わっていきました。

そうした移ろいや変化を目の当たりにする中で、8周年とか、周年イベントとか、開催する意義あるのかなあと感じたりもします。このままないならないでいいかあ、とも思いましたが、結局やることにしました。

2022年7月末、自分も含めて、スタッフ全員、コロナに罹患しました。感染者数としては一番、多かった頃ですね。僕は無症状だったので今でもピンと来ませんし、陽性と診断されるまで時間がかかったということもあって、「スタッフ全員、陽性になっちゃったから営業はできないけど、自分は元気なので、お店でデスクワークしてる」っていう日が1日ありました。

シャッターに臨時休業の案内を張って、僕は店内でデスクワークしようとするのだけども、ランチに来てくれるお客さんが店の前まで来て、帰っていく姿を見て、「やっぱ気まずいなあ」と思ってました。そもそも、なかなか稀有な状況です。仮に自分が一人になったとしても、元気であればなんらかの形で一人でも営業するでしょうし、店に出れないほど元気じゃないという状況というのはまあよっぽどです。実際、この8年、体調不良でランチを休んだことは一度もありません。

だから、「自分は元気だけども、お店は休んでいて、かつ自分はお店にいる」というのはいくつもの条件が重ならないかぎり、発生しえないシチュエーションです。そして、実際に、2022年7月末にそのシチュエーションが起こりました。

重複になりますが、その状況はすごく気まずかったです。やっぱり休むのなら店内にいないほうがいいなあと痛感しました。そんなふうに感じているところに、「常連ってほどじゃないけどちょくちょく来てくれる、顔と好みはわかるけど話をしたことはない、暗くはないけどかと言って明るいイメージもない」という微妙な距離感の男性客(多分30代)がお店に前に来て、閉じられたシャッターを見て「なんだよ!やってないのかよ!」と、まあまあの声量で言い、まあまあの力で手のひらを自分の太腿に叩くのを目撃しました。


その光景を目にした瞬間、気まずさと同時に、それまでになかった新しい感情が芽生えました。「すいません…、でも、なんか、ありがとうございます…」的な。仮に僕が一人営業しててんやわんやだったとしても、彼はいつものように黙々と注文し、黙々とお召しになり、黙々とお支払いいただき、黙々と退店されていたかと思います。でも、僕が店内から見た店外の彼は全く黙々としていなかった。「なんだよ!やってないのかよ!」。

普段日常的に見ていることや、情報として記録されていることだとか、自分が想定していることは事実ではないし、実際に「実際」ではない。けれど、彼がその時発した言葉と、彼が自分の太腿に打った平手は、予定調和なレビューや、取ってつけたかのようなコメントを無に帰すような、生々しい反応であり、シンプルな肉声でした。彼のその落胆をライブで目の当たりにした時、自分は自分のお店をもう少し誇らしく思ってもいいのかも、と感じました。満足することなんてないし、常に何かが足りないと感じているからこそ頑張るし、工夫するし、よりよくいよう、よりよく在ろうと思うけども、同時に「そんなふうに思ってくれてたんですね…、ありがとうございます…」と、もう少し素直に受け取ってもいいのかもしれない、なんていうふうにも思いました(単純に暑かっただけかもしれないけど。去年の夏は暑かった…)。今や闇の根源とされ、陰口のトッププレーヤーでもある「承認欲求」ですが、「承認欲求を承認」することも大事かもな、と感じたのです。

という、そんないきさつもあり、8周年はやろうと思いました。



誕生日は依然行方不明ながらも、ざっくり8年もの間、どうにか戦火を潜り抜け、今のところは今もなお、この路地裏で生き延び続けているJ×Jを3月28日と4月1日と今年で言えば4月22日に、まずは何はともあれ、自分がちゃんとお祝いしてあげなきゃな、と思うのであります。





ジャーニーのトラベルグルメ①2023年2月「石垣島」vol4

東京に戻って早10日が経ちました。石垣島がはるか昔のことのように感じます。すっかり現実に引き戻されてますが、トラベルグルメ石垣島編書ききりたいと思います。

1位は鮮魚店の「おさしみ」

沖縄産の魚の刺身を食べること自体がおそらく初めてでした。関東の沖縄料理店って、お刺身、置いてましたっけ?もし、それが普通なのだとしたら、僕の見落としですが、全くピンときません。グルクンの唐揚げ以外に、魚を認識したことなかったし、イメージしたこともなかったです。でも、考えてみればおかしな話。あれだけの海に囲まれていたら、そりゃまあ魚もたくさんいるだろうし、たくさん獲れるでしょう。


でも実際、味はどうなのか?

地元のスーパーを見るのが好きで、観光地でも入るようにしています。地場のものや郷土料理を眺めるのは楽しいものです。今回も大小、いろんなスーパーを観光しましたが、大きいマックスバリューの向かいに小さな鮮魚店があったので、どんな感じか覗いてみました。さぞやマックスバリューにもっていかれてるのだろうと思って入りましたが、その小さな鮮魚店に次から次へとお客さんが入ってくる。

こんな感じで聞いたことのない魚のお刺身がずらりと並んでます。テンション上がります。

僕は後ろに下がって、地元の人がどんなお刺身を買うのか眺めていたのですが、大体の人が「まぐろ」と「かんぱち」を買っていきます。え、そんなにまぐろが美味しいのか、もしくは沖縄の魚はあまり美味しくないのか、と、色々と思索に耽ります(この時間も楽しい)。

けれど、どんなに美味しかろうと「まぐろ」を食べても仕方ないし、やはりここは沖縄のお魚でしょう、と意を決し、ショーケースの前に陣取りました。そこで気付くのが、まずそもそも1パックに入ってる量が多いということ。にも関わらず、どれも安い。1パック、大体300円。安いとなれば全部買いたいけど、全部買ったら多すぎるし、どうしよどうしよと逡巡しているうちに次から次へとお客さんが入ってくる。ええい、全部いってしまえ、と思って買ったのがこちらのラインナップです。


雰囲気にのされて慌ててしまい、結果、どれがどの魚だかわからなくなってしまいました。でも、これだけ入って300円なわけなんだから、やっぱり味はイマイチなんだろうなと思いつつ、食べました。はい、またもや、すいませんでした案件。完全にたかを括っておりました。いい意味で予想を裏切られてばかりの今回の旅行でしたが、このおさしみたちが一番のびっくりです。見事に全部、美味しかったです(個人的には手前の赤いお刺身がとりわけとくに)。

この写真の左のポスターにあるように、まだまだ沖縄魚の世界は広いはず(そもそも今回食べたのが何なのかもわかってない)。次回はもっと深くディグれるように陣形を整えて臨みたいと思います。


でもこうなると、地元の方々がこぞってお求めしていた「まぐろ」と「かんぱち」も気になるなー。



ジャーニーのトラベルグルメ①2023年2月「石垣島」vol3

第6位という中途半端なところから始めたトラベルグルメ(3泊4日の旅で自分が好きだなあと思った石垣グルメランキング)ですが、一応振り返りますと、

第6位 八重山そば

第5位 オニササ

第4位 チーズバーガー

第3位 島らっきょうの浅漬け

と続けてきました。我ながらベタな感じになりました。わざわざ複数回にわたってブログに起こすくらいなのだから少しは有益な情報をご提供したいところですが、あくまで率直にいきます。第2位はホットドッグです。

島ドッグ

「島ドッグ」としましたが、思い返してみれば正確な商品名は不明瞭です(道路に出されていたのぼりに「島ドッグ」と書かれていました)。「島ドッグ」というのは総称で、「沖縄固有のアグー豚で作ったソーセージを使ったホットドッグ」ということですね。観光客を少しでも惹かせるためのネーミングかと思われます。

さらに言えば、この島ドッグを販売していたお店はホットドッグの専門店ではなく、というか飲食店でもなく、グランピング施設でした。「グランピング施設がグランピング施設として稼働しない時間で少しでも収益をあげるために副業的施策」、そんなような感じでした。敷地の中に入っても、他のお客さんはいないし(14時ぐらい)、なんならスタッフさんもおらずの状況で、諦めようと思ったところに、たまたまスタッフさんが通りかかって注文できた、という具合です。

栄えている島の南部を離れ、ナチュラルな北部を原付でまわり、原付と言えど走ってて気持ちは良かったけれど、それはそれで疲れるっちゃ疲れます。小腹も減ったし、どこか適当なところで休憩したいと思っていたところで見かけた「島ドッグ」ののぼり。しかも閑散としたグランピング施設での、「とりあえず、のぼりぐらいは立てておくか」的なホットドッグです。当然、期待はしません。ちょっと休憩できて、ちょっと小腹を満たせればそれで十分なのです。

はい、すいませんでした。すごくすごく美味しかったです。率直に感銘を受けました。でも思わないす。この状況で、その状況で、あの状況で、こんな美味しいホットドッグが出てくるなんて思わないす。第4位に挙げたチーズバーガーと同じような系譜ですね。チーズバーガー同様、僕がそれほど期待していなかったというギャップはあるとは思うけど、でもそれにしたって「感銘」は受けません。弾ける肉感と、溢れでる旨味、パンとの調和。感銘です。

さらに言えば、僕はこのホットドッグを通して、「次来たときはここでグランピングしたい」とさえ思いました。一口かじって、即座にグーグルマップで「お気に入り」登録しました。ホットドッグ一本で、その波及効果で未来のグランピングの一泊につながれば大したもんです。我ながら見事な観光戦略に見事にハマッてる見事な観光客です。そもそも、きっかけはたまたま見かけた「のぼり」。ホットドッグも「のぼり」も侮れない。

もともとは2位「島ドッグ」に続いて、1位についてもこのブログで書く予定でしたが、書いてるうちに一本のホットドッグがもたらしたインパクトがあまりに印象的で、この記事内で1位について言及する気力がなくなってしまったので、次のブログで発表することにします。


いやはや、ホットドッグも「のぼり」も侮れないぜ。


そして、これからは侮らないぜ。




 

 

ジャーニーのトラベルグルメ①2023年2月「石垣島」vol2

旅先では旅先ならではのものを食べたいと思うし、願わくば観光客向けの仕立てられたものではなく、現地の方々が日々の暮らしの中で日常的に食べているものや、作っているものを体験したい。ごく普通のことだと思うけど、地場の食材を使ったイタリアンだとか、カフェだとか、ハンバーガーショップなども旅先でよく見かける。でも、基本的に時間と食事機会は限られてるわけだから、必然的にこれらのお店は後回しになる。少なくとも僕はそうだ。どんなに有名なハンバーガーショップがあったとしても、旅行先では食べない。そうしたお店を見かけると、「よくここでやるよなー」だとか「よくこういうところに行くよなー」とか、そういうことを思ってしまうタイプ。レビューが高かったり、行列ができていたりすると、バイアスはなおいっそう硬直化する。

チーズバーガーと牛乳

けれど3泊4日もあれば、ウェイトのかけ方も変わってくる。10分で終わるサッカーと、90分フルで使えるサッカーでは戦術が異なってくるのは当然だ。90分のびのびプレーできることも早々ないな、と思って、思いっきり有名なハンバーガーショップに思いきって行ってみた。

結果、思いきっり美味しかったです。また石垣に行っても絶対リピートします、行列できてても並びます、その時1泊2日しか時間がなくても予定に組み込みます。バイアスかけて、すいませんでした。なんならできるだけ映えるように露出やシャッタ―スピードを変えながら、何枚も写真撮りました。

おまけにパテの厚さを表現したくて、おじさんの食べかけまで写真に収めました。食べながら、複雑な溜息をつきました。ごめんなさい、そして、ありがとう、と。もともとジェラートが有名なお店(ミルミル本舗)ですが、「ジェラートはまあいいや、それよりも牛乳を飲もう」と思って、牛乳を選びましたが(美味しかったですが)、大人しくジェラートも食べるべきだったと反省してます。

島らっきょうの浅漬け

手放しの絶賛をチーズバーガーに贈りながらも、3位はコテコテの居酒屋メニュー「島らっきょうの浅漬け」です。

バイアスは捨てなきゃと思いながらも、同時に血はそう簡単に争えません。酒飲みはやはり肴に弱いものです。何せ沖縄自体が初なので、沖縄で沖縄野菜を食べるのも初めてなわけで、自分が知っているものと(東京の沖縄料理屋で食べる沖縄野菜)どれぐらい違いがあるんだろうと疑問に思っておりましたが、この島らっきょう、めちゃくちゃ美味しかったです。と言っても、鮮度なのか、漬け方なのか判然としません、が、とにかく完璧だなあとしみじみと惚れ惚れしました。

というわけで、以上2つが4位と3位だったわけですが、せっかくなので他の石垣居酒屋メニューもダイジェストでお届けしたいと思います。

夜光貝のガーリックバターソテー。肉厚。

奥が沖縄三大高級魚のアカマチのお刺身(あんまり高級な感じはしなかった)、手前が山羊刺し(しっかり山羊の味がした)。

もずくの天婦羅。作るの大変そう。

グルクンの唐揚げ。東京で食べるグルクンとは色々と違う。

フーチャンプルー。チャンプル系はこーれーぐーすとの相性がやっぱりいい。

海ぶどう。盛り方で印象が変わる代表格の一つだと思ってる。

ゴーヤチャンプルー。「うわ、ゴーヤいっぱい!」とウェイトレスの女の子が驚いてた。

ラフテー。小口ねぎの量とかけ方が印象的。

島豆腐の揚げ出し。このお店特有なのかどうかわからないけども、片栗粉がしっかり効いた強めの餡だった。僕は汁っ気が強い方が好きだけど、揚げた島豆腐はとても美味しかった。

てびち(豚足)のおでん。豚足はもっと地位を高め、重宝されてもいい食材だと個人的には思っている。

もっとたくさんあるのですが、もう十分だと思うのでこのあたりで切り上げます。この中では島豆腐の揚げ出しが僕は一番好きでした。次回の記事では2位と1位、いかせていただきます。

ジャーニーのトラベルグルメ①2023年2月「石垣島」vol1

40歳にして初めて、沖縄に行ってきました。最初は本島の方がいいかなと思いましたが、悩んだ挙句、3泊4日で石垣島へ。ここ数年は1泊か日帰りばかりだったので、久しぶりのゆっくりな感じに胸が高鳴りました。

着いたのは夜で、たまたま石垣にいた友人と落ち合って、早速近くの居酒屋さんへ。ここから怒涛の沖縄料理三昧が始まります。この記事では旅行そのものというより、石垣で食べた料理についてをメインに取り上げていきたいと思ってます。けれど時系列で追うと冗長になるし、なにせたくさん食べたので、少し整理しながらランキングチックに記録することにします。石垣グルメは自分の想像よりもずっと美味しかったです。けれど、「美味しかった」よりも「好きだった」というニュアンスのランキングにしたいと思います(自分の場合、お腹が減っていればなんでも美味しいので、「美味しかったランキング」というのは、「その時お腹が減っていたランキング」とほぼ変わらないものになってしまいます)。

八重山そば

まずは何はともあれ八重山そば。さすがにそこまでの観光需要はないでしょ、島民もさすがにここまでは不必要でしょ、というぐらい無数に点在します。香川県におけるうどんのような存在ですね、きっと。

その中で、僕が食べたのは『なかよし食堂』さんにソーキそば。

沖縄そば八重山そばの違いは?、とか、「ソーキ」とは何か、という話をし始めると無限列車行きなので割愛します。一言で「ソーキ」と言っても「本ソーキ」と「軟骨ソーキ」があるようなのです(写真は本ソーキ)。おそらく八重山そば全体に言えることだと思いますが、基本的には素朴でシンプルな味わいです。素朴で、シンプルだからこそ、そこには奥深い世界があるのかもしれませんが、僕のような観光客にはそのあたりの機微や違いはよくわかりません。お店の雰囲気も含めて、ほっとする一品でした。

この『なかよし食堂』さんは最終日に再訪しました。気になったメニューがあったからです。

ずらっと並ぶ食堂メニューの中で、心惹かれたのが、

みそ汁、600円です。具だくさんの豚汁のような感じかなと予想しましたが、

具だくさんの豚汁でした。でも、いわゆるの豚汁には入らないような野菜がたっぷり入っていて美味しかったです。これに親子丼(豚肉)も注文して、豚三昧しました。

こちらのお店でもう一つ興味深いメニューがありました。

どこからどう見ても、かき氷の練乳いちごですが、メニュー名は「金時」でした。食べ進めていくと、下の方から金時が姿を現しました。

普段、甘いものはほとんど食べないので、かき氷のいちごにあんこを合わせるというのは普通なのかどうか今一つ判然としなかったですが、でもまあ、苺大福はあるわけだし…(あれはあんこの甘味と苺の酸味の相性がいいからだと思うけど)と思案しました。

こういう時、僕はググったら負けだと思ってます。「かき氷 いちご 金時」で画像検索すれば、そりゃ出てくるのでしょう。でも楽しいのはできるだけ無駄にあれこれ思索を張り巡らせることです。結論を急いではいけないし、グーグルに結論を委ねない。


でもまあ、苺大福はあるわけだし…。

…。

でもまあ、少なくとも「金時」ではない、と結論づけました。金時は確かに入っているが、だからと言って、このメニューは「金時」ではない。

…。

だとして、だからなんだ?、ですが、3泊4日ともなれば、こういう物思いに耽けることもできます。それが心地よい。少なくとも「金時」ではない。


八重山そばの話に戻すと、旅行中、もう一杯食べました。ならではのものはできれば2,3回食べておきたいものです。

こちらのお店は栄福食堂というお店の八重山そばです。大分、クセのある店主がやられているお店ですが、そば自体はまた一段とシンプルです。八重山そば自体、こーれーぐーすとの相性がいいわけですが、これに加えて「ピパーチ」と呼ばれる島胡椒(写真左)がテーブルに置かれていることが多く、これがまた抜群によいのです。現地の調味料ってやっぱ面白い。

でも個人的には当該そばよりも、むしろ200円で売られていた「ミミガー」と「もずく酢」の方が印象的でした。既製品なのか手仕込みなのかわからないけども、重要なのは「頼んでよかった」と思えることであり、まさにこの2品は「頼んでよかった」ものでした。この2品でビールを2本かましてからの、そば〆。最高です。

続いては「オニササ」

これも詳細は割愛します。調べればたくさん出てきます。テレビで取り上げられて、火がついたようです。僕が特筆したいのは、

①「せっかくのおにぎりを潰すのであれば、そもそも握らなくてよくない?」(ささみカツ丼でよくない?)ということと、

②「基本的には侮りがちなささみフライがそもそも美味しいこと」、

そして、③「どう頑張って撮ろうともバえない」ことです。これだけ映えないのに、飛ぶように売れていることがすごいです。

こちらがオニササです。

やっぱりバえない。

実にバえない。でも、美味しいのです。この歳になっても僕はこういうジャンク、全然ウェルカムです。好きです。

あれこれ寄り道しましたが、以上が石垣島で食べたものの中で好きだったメニューの6位と5位です。次の記事は一段と寄り道しながら、4位と3位いってみたいと思います。


難問を愛そう。

HondaのCMのキャッチコピー、「難問を愛そう」。CM自体はHondaのカーボンニュートラルへの挑戦を表現したコピーなのだけど、最初にCMを観た時からこの言葉がやたらと脳裏に残り、仕事であれ、個人的なことであれ、難問にぶつかる度に心の中で反芻するようになった。そして、それを唱え続けた一年となった。難問の多い一年だった。

トラブルや壁は付き物だし、もぐらたたきのようにきりがなく、なんなら、業のようにこびりついてるものだと思っている。お店をオープンして8年も経てば、かつての想定外は今の想定内におさまり、想定外は想定内で、想定内が想定外、そんな認識さえ芽生えてくる。だから自然とたくましくなるというか、無感覚になるというか、単純に慣れてくる。店舗運営や経営に限らず、どんな仕事だってそうだと思うし、プライベートや人間関係にだって同じことが言える。積み重ねていくことで、ある意味、たくましくもなるし、積み上げていくことで、ある意味、無感覚にもなる。そして、良くも悪くも慣れてくる。

ひとくちに「難問」と言っても、いろんなタイプがある。カーボンニュートラルの達成のように規格化されたものもあれば、エネルギーや原材料価格の高騰やコロナなど外的要因による問題もあるし、起業しようだとか、新しいお店を出店しようだとか、そうした個人的な目標がそのまま個人的な「難問」として設定されることもある。言うまでもなく、新年のようなタイミングにおいてはとりわけそのパターンは多くなる。

社会問題であれ、新年の抱負であれ、難問として設定している時点で、それはすでに知覚できているもので、すでに気付けているものでもある。であるならば、解決に見合った熱量と努力と工夫を注ぎこめばいいと思うし(それしかない)、自分が進みたいと思っている先にあるすでに見えている難問に対してはけっこう頑張れる。けれど、本当の難問というのは「それがやがて難問になるということに気付けていないこと」だと最近感じる。そういう状況や状態をもたらしている原因はやはり「慣れ」なんだろうし、大体それは足元にある。

難問とは言え、「問」であるかぎり、「解」はあるはずで、もうすでにその解かなければならない難問が目の前にあるならば「愛そう」というか、愛するしかない。キツくて苦しくなったら切り上げることも必要かもしれないが、そうでないならコツコツと紐をほどいていくしかない。けれど、もっと重要なのは問題を難問化させないこと。難問化する前の問題を直視し、向き合い、複雑に絡み合う前に紐をほどかなければならない。きっちり砂漠化してから砂漠化をきっちり解決するのはやはり難しい(それでも解決しないといけないのだろうけど)。

ある意味たくましくなる度に、ある意味無感覚になっていく度に、かつて問題だった問題は解決される。けれど、そこにはきっと新しい問題が芽吹いている。それを見逃さないためには足元をよく見るしかないのだと思う。

 

足元をしっかり固めないことには飛躍はできない、

ならば飛躍することよりも重要なのはむしろ足元で、

となれば、まずはその足元に転がる「難問化する前の問題」を愛そう。


というわけで、何はともあれ、運動不足を解消しよう。

 

 

世界一周からちょうど10年。

今から11年前、2011年11月22日、自分の世界一周が始まりました。

最初に着いたニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港で早速ぼったくりに遭った。典型的なカモとして、古典的な手法で、芸術的に巻き上げられたわけだけども、180ドル請求されたところ、僕が半ば泣きべそで懇願したら、その詐欺師はどういうわけか80ドルにまけてくれた。当時のレートで6400円、もし今のレートで、かつディスカウント前の正規価格であれば25,000円だ。ホイッスルと同時に25,000円もいかれたら、立ち直るのに相当、時間がかかっただろうなと今、改めて思う。でも幸い、2011年の11月22日は6,400円で済んだ。

到着直後にしてそんな痛々しい洗練を受け、ほんとにこのあと1年間の世界一周なんてできるのかと甚だ不安だったけれども、その後はこれといった失望も損失もなく(8か月後、トルコのイスタンブールの少しだけセクシーなお店で、少しだけセクシーなことをしたら3万円請求されたことがあったが)、自分史上おそらくもう2度とないであろう、最高の一年と最高の365連休を過ごさせていただいた。

そんな365連休を経たのち、2012年11月、ちょうど今ぐらいの時期に帰国した。つまり、世界一周帰国からちょうど10年経ったことになる。

同じ時期に旅していた旅人と会うことも最近ではめっきりなくなった。家庭や子育て含め年齢のこともあるし、自分の働き方の問題もあるし、コロナは極めつけだったとも思う。だから必然的に日常で旅や世界一周のことを話す機会というのは皆無に等しく(旅食ダイニングにもかかわらず)、思い返すこともほぼなく、当然、「世界一周から10年」などというタイトルで改まってブログで振り返る人もいない。そもそも「ブログ」を書いてる人がそもそも、いない。

「だからこそ」的な天邪鬼な発言をしたいわけではないけれど、単純に改めて改めることも意義があるようにも思える。世界一周から10年。今、振り返ってみるにあたり、それはどんな意味を持つのか。

まず2012年という年は日本人旅行者にとって本当に恵まれた一年だった。先述したとおり、為替は1ドル=80円前後で推移し、今、同じことをすれば予算は2倍ちかくかかっていたことになる。さらに、国内的にも国際的にも「特に何もなかった一年」と言える。国内で言えば、前年の東日本大震災から、自民党への政権交代までの1年であり、国際的には前年のアラブの春が始まってから翌年のIS(イスラム国)台頭までの1年でもある。自分が長期の海外旅行に出るたびに、9.11が起こったり、スマトラ島沖地震が起こったりしていたので、そう考えると本当に穏やかな一年だったように思える。リーマンショックギリシャ危機のような経済的なアクシデントもなく、SARSやMARSのようなウィルスが蔓延することもなく、シリアやイエメンを除けば戦争や紛争のニュースは皆無に等しかった。多くの旅人は緊迫した情勢に左右されることなく、自分の旅だけに100%集中することができた稀有な1年だったんじゃないかと思う。


まわりの40歳に比べて自分は未だに幼稚で、そして青臭いと思うけれども、10年前となればさらにその傾向は強い。過ぎてみればそれは特別に珍しい経験ではことがわかるが(なにせ一周中にはたくさんの一周旅行者に出会うから)、当時の自分にとって世界一周は並々らならぬ思いで臨んだ人生をかけた大一番だった(言ってしまえばただの長期旅行なのだが…)。

旅行中、ずっとブログを書いていたのだけど、写真は載せず、旅行のテーマである料理のことにも触れず、ただの文章をただ書き続けた。当時ですら「映え」の前身の概念にあたるものはあったし、今でいうところのフォロワー数や再生数にあたる指標も勿論あったけど、その華やかなメインストリートの路地裏で甲斐のない文章をひたすら黙々と書き連ねた。

その世界一周ブログの最後の投稿記事をサマリーすると、

・母が作った魚の煮つけを食べるのが楽しみだ。
・ごはんをみんなで食べるというのは幸せなことだ。
・日なたは暖かく、時に暑い。
・日かげは涼しく、時に寒い。

という4点に集約されている。

ameblo.jp


人生を賭した一年間の世界一周は上記4点に集約され、その集約された4点をさらに集約すると「当たり前なことに、当たり前に感謝しなきゃね」的な月並みな表現となり、さらに言えば「さらに言えば、当たり前なことって、そもそも当たり前じゃないよね」という、より無難で、より当たり障りのないレビューに着地してしまう。

しかしながら、どうにもこうにもそれに尽きる。一周して、その2年後に独立し、お店を始めて7年半経とうとしているけども、世界一周での結論がこの7年半においても連動し、連綿と続いている。根本的な部分に抜本的な新しい発見はなく、尊い確認を日々尊ぶ日々だ。

自分は世界一周の経験がダイレクトに自分の生計に結びついてるので、明確なアイデンティティとして、明確な血肉になっているけども、ただ2042年の20年後も「2012年に世界一周をして、その時に食べたあれこれをこれこれして…」という店舗コンセプトをこすり続けられるとは思えないし、こすり続けようとも思わない。

10年前、世界に新しい発見を求めたように、帰国から10年を機に、どこかに何か、新しい発見を求める冒険に出てもいいようにも思える。この文章にも顕れているように、やはり自分は幼稚で青臭い人間だけれども、腹黒くなるのも、無色になるのもできれば避けたいところなので、ならば10年前、荒野を目指したように、青臭いままでもいいかなと思う。



 

冷奴はビールにあうのだろうか?

長らく眠っていた2号店をようやく起こすことができました。正確に言えば貸切の時は開けていましたが、通常営業を再開したのは2年ぶりくらいです。長かった…。とは言え、目下深刻な人手不足に見舞われており、開けられるのは木曜日と金曜日の週2日のみです。さらに言えば、その週2日営業もどこまで続けられるかわかりませんし、そもそもこれから忘年会の季節、実際どれだけ普通に営業できるのか不透明なところです。

でも、なんとかこじ開けることができてよかったと思ってます。そして、ただオープンするだけでなく、同時にフルリニューアルを図れたのがよかった。今までは本店の内容をコンパクトにした感じだったけれども、その機能は残しつつ(2号店は本店と同じメニューですか?、と聞かれることもやはり多い)、「居酒屋」として側面も付与したことが今回のリニューアルの最も大きなポイントだと思ってます。

もう一つのポイントは自分が2号店に立つこと。独立して2年半後に2号店を出すことができたのはよかったけれど、自分自身は本店にかかりきで、コロナも相まって、2号店に手が回らなったのが実際のところ。一方、コロナがあったからこそ、2号店に着手する時間が生まれ、改めてしっかり整えることができました。それにこの2年半の間に自分が取り組みたいと思っていた飲食外のこと(EC、オリジナル調味料の開発、小説執筆、レシピ本の制作)は大体できたし、宴会・団体・貸切需要に特化し続けたことによる弊害(と改めての恩恵)も十分味わったので、一周回って普通の居酒屋を普通にやりたいという現場欲が沸々と高まっておりました。だから、今、自分が2号店に立ち、イチから再構築するということは挑戦的だし、楽しみなことであります。

普通の居酒屋を普通にやりたいと言っても、ほんとに普通じゃ面白くないし、お客さんも来てくれないと思うので、日々、「こういうことやりたいなあ、でも本店じゃできないなあ」と感じていたことや、「自分がお客さんだったらこうするなあ」と思っていたことを週2営業という限定的かつ現実的な範囲で可能なかぎり凝縮したつもりです。

個人的に冷奴はビールにあうとは思っていません。枝豆も同様です。ビールを飲む1杯目、2杯目のタイミングで「とりあえず」的な感じで、そこに枝豆があるからそうなってるだけで、「ビールにあう」とは思えないのです(栄養学の観点は除く)。正確に言えば枝豆に振られている塩であるとか、冷奴にかかっている醤油や薬味がビールとの相性として機能しているだけでないか、訝しく思ったりもします。だって醤油と薬味のないただの冷えたお豆腐はビールとあわなくないですか?と、そんなような疑念を僕は抱いているのです。

このブログを書くにあたり、そう思っているのは僕だけじゃないはずだ、と検索してみたら、Yahoo!の知恵袋でまさに同じような疑問を投じている人を見かけ、おお!、と思って覗いてみたら、びっくりするぐらい袋叩きにされてました、苦。「おまえの主観だろ」だとか「美味しい枝豆を食べたことがない残念な人」だとか、それはもうひどい言われようで、まさに惨劇でした。

幸い、このブログはほぼ誰も読んでいないので荒れることは100%ないし、「店」はそもそも店主の「主観」を「提案」して、「吟味」してもらう場所だと思うので、自由にいかせてもらいますが、今回、2号店では「個人的な主観に基づくちょっとした個人的疑念」をすごく細々と、とてもささやかに、ブチまけています。マーケット・インは勿論重要ですし、それによってJ×Jの経営は成り立っていますが、同時に個人事業主の個人事業におけるマーケット・インほど虚しいものはない、とも考えています。どんなに小さくてもいいから自分ならではのマーケットを創出して、自分だからこそ形成できる文化を醸成するのが個人事業の醍醐味であり、魅力でしょう、と僕は思うのです。

プロダクト・アウトが失敗するのは単純にプロダクトが悪いだけで、プロダクト・アウトという概念そのものが悪いわけではないんじゃないだろうか。逆に言えば、マーケット・インは良心と良識のあるマーケットがあるからこそ成り立つ概念ではなかろうか。

というわけで、J×J2号店の冷奴は「非冷奴」で、J×J2号店の「純豆腐」は「不純豆腐」です。うがった見方をしてるわけでもなく、斜に構えてるわけでもありません。シンプルにそっちのほうが喜んでもらえるんじゃないかと思ってます。勿論、ひねくれたいわけでもありませんが、ちょっとひねりたい、という感情はあります。

そして、「居酒屋」の定義も、皮肉めいた言葉遊びや個人的疑念も、マーケットも、プロダクトも超えて、

その先というか後というか、

その奥というか手前というか、

そうした座標を超えて、そもそもの本分としてあるのは「楽しい時間を過ごしてもらいたい」という一点で、帰り道に「今日、楽しかったね」と言ってもらうことが単純に全てです。


ご来店、お待ちしております!