発信する側も受信する側も大した変化のないまま、情報のスピードとボリュームだけが青天井で、そもそもの五里霧中の霧っぷりも、そもそもの暗中模索の闇っぷりもますます深まるばかりで、幸福論は混迷を極め、自己正当化はまさに百花繚乱。よくわからないことが多い浮世の中で、刻々と進行する地球の砂漠化とともに、僕も着々とおじさん化が進み、いろんなことがどうでもよくなってきた。いろんなことがどうでもよくなってきたということはつまり、どうでもよくないことが明確になってきたということでもある。そして、どうでもよくないことというのはそれほど多くない。それだけに集中すればいいのだから、ある意味、楽ちんだ。
あらゆる情報はその時々の断片にすぎない。だから、その情報が正しいかどうかというのはそれほど重要ではないと思うのだけど、次から次へと新しいことが更新される現代だからこそ、逆に過去を振り返ることを大切に感じるようになった。桜木花道の「俺は今なんだよ!」と、林先生の「今でしょ!」はまさに「今」至上主義を築き、今も昔もなんとなく頑張り続けるのはなんとなくの未来のためなのだけど、「今」の確度と「未来」の蓋然性を高めるためには過去を精査するのが一番有効だと思う。例えばコロナなんていい例で、初期の頃の戦々恐々としたあの感じは一体何だったんだってやはり思う。当初、感染したことで引っ越しをしたり、それ以上の極端な行動を余儀なくされたり、あるいはそう追い込んだ人たちや懐かしき自粛警察の方々は毎日、何万という感染者が当たり前に出る中で今、どんな心持ちなのだろうか。
今、世界中(の大部分)がウクライナを案じているけども、トンガの噴火はどうなったのか、ミャンマーはその後どうなっているのか、香港は?、アフガニスタンは?、シリアは?、と、おそらく大多数は思い返すこともない。よりセンセーショナルなトピックやアジテーションに覆われ、その節々でヒートアップしたもっともっぽい感情は見事に風化される。誰が何の罪で捕まったのかなんてそもそも朧げだし、「あの人って不倫したんだっけ?されたんだっけ?」みたいな感じで、もはや何にも覚えていない。当時はそれでそれなりに持ちきりだったにも関わらず。
つまり、その時々の「情報」なんて最終的にしょうもないんだから、そんなものに振り回されたり、流されたりするなんてナンセンスだ。情報そのものにさほどの価値はなくて、それよりも重要なのは自分の「解釈」であり、全ては自分の解釈力に基づく。フィジカル的にもメンタル的にも自分の解釈力が弱っていれば、冷静さを見失ってしまうが、逆に言えば、自分の解釈力さえ保っていれば、ある意味、全ては自分の意のままだ。自分の解釈力を過信すると盲目的になり、偏狭になるが、そうならないようにバランスを取りながら、解釈の幅と質を高めることで、今まで以上に思うままに暮らし、思うままに働いていこうと思うのです。そして、J×Jもそういうお店でいようということを8年目の抱負として掲げたいのです。
そうとは言うものの、僕なんて、J×Jなんて、まだまだだ。まだまだしょうもないものとしょうもなく戦っているような気がする。
お店の近くに古びた中華屋さんがある。いわゆるコテコテの昔ながらの町中華で、近所のサラリーマンに人気で連日賑わいを見せているが、先日、初めてここを訪れることができた。炒飯が目当てだったのだけど、壁に貼られたメニュー札を見ていると、それ以上に気になるメニューがあった。
お分かりだろうか?
お気付きだろうか?
ザーサイ定食!!!
ここ最近で、最も度肝抜かれました。色々と驚かされることが多い世の中だけども、職業病なのか、ザーサイ定食にはびっくりしました。言うなれば、「きゅうりの一本漬け定食」だとか「福神漬け定食」と謳っているようなものので、それを唐揚げ-焼肉-生姜焼きという黄金ラインの同列に並ばせ、しかも同価格の950円という強気設定。現代社会の洗練されたマーケティングやブランディングをなぎ倒し、レビューや口コミなんてもとより、認められたい、褒められたい、叩かれたくない、悪く言われたくない、など俗世の座標を超越した自己実現と言えるのではないだろうか。ただひたすらに興味が湧く。ただひたすらに好奇心を掻き立てられる。
衝動と欲望を抑えられずに満に満を持して、ザーサイ定食を注文した。ウェイトレスのおばあちゃんの「ザーサイ、一丁!」の声が僕とミヤネ屋しかない店内に響き渡る。
そして、ザ・ザーサイ定食が眼前に現わる。
味噌汁がメインのような写真になってしまったが、そうではなく、ザーサイ定食のアイデンティティである「ザーサイ性」は写真右上の炒め物に付与されている。見た感じ、チンジャオロースの様相であったが、そのまんまチンジャオロースにザーサイが入っているだけであった。
チンジャオロースにザーサイが入っているだけであった。
そして、なんなら、チンジャオロース感が強すぎて肝心のザーサイ性は感じられない。
それだけでも十分、冒険した甲斐はあるのだけど、さらに言えば、いわゆるの「定食」におけるサラダ的部分にはキャベツの千切りが用意されており、
この「キャベツの千切りサラダ」に対し、
マヨネーズが一本、無造作に置かれた。そしてちなみにキャップは細く線引きできるタイプではなく、何のための星型なのかよくわからない、ぶちょっと出るタイプだった。
ザーサイ定食にしても、千切りキャベツに無造作マヨにしても、この雑さがたまらなく、たまらない。「真摯に、丁寧に」が勤勉な日本人の流儀であり、美学だとは思うけど、みんながみんなそうである必要はないし、それで苦しくなるぐらいだったら、無理にしなくていいと思うし、しがみつく必要もない。
店も、そこに集まる人も、せっかく歳をとるのだから、もっと楽にいこう、と千切りキャベツにマヨネーズをぶちょっと出しながら、そんなことを思う。