Journey×Journeyと山本ジャーニーの冒険-独立・開業と「旅食」の航海日誌-

秋葉原の多国籍・無国籍のダイニングバー「Journey×Journey」。独立開業までの過程とオープン後の日々を綴る、山本ジャーニーの営業日報。

であれば、少しでも歩いて、少しでもお腹を空かせたほうがいい。

情報化社会やIT革命というのはいつのまにか大昔の言葉となり、「情報」も「IT」も多くの人の生活にごく自然と溶け込み、混然一体となっている。今でも各メディアにおいて最先端技術だとか、最新グルメだとか、そういう類のフレーズや表現は使われてるし、好まれてもいるけども、今、この瞬間にも情報は更新し続けているわけだから、もはや言葉として成立し得ないほど加速度的だ。最新グルメ情報として編集され、体系化される頃にはそれはもう最新ではない。そのスピード感やボリュームに嫌気が差して、情報を意図的にシャットアウトするようなスローライフ的発想や動きも当然あり、それもまた今後加速していくのだろうと思う。

けれど、その速度と重量の変化と比較して、肝心な情報の「質」がどうなっているかと言うと、それに見合った変化をしているとはちょっと思えない。勿論、変わってきてるところもあると思うけど、多くの人はなんだかんだでバカバカしい文春砲を好み、くだらないネット記事に「くだらない」と言いながら、釣り気味のタイトルやサムネイルに釣られる。バカバカしさやくだらなさを憂うふりをしながら、甲斐のない優越感に浸り、何も行動しないまま愚痴って、ディスって、ただ飲み、ただ寝る。まさにバカバカしく、まさにくだらないけれど、かく言う自分もまあ大体そんな感じだ。

例えばそんな具合で、結局そういう欲求がマジョリティだからこそ、技術や外的環境の向上と比べて、情報の「質」は底辺のまま、低空飛行している、というふうに思える。では、そもそも「質」とは何かという話になるのだけど、ここにもクリアな回答はない。今回のコロナのようなことがあったり、国政選挙や有事があったりするとテレビはますますの標的となり、一方的に叩かれる。そして、テレビはでっち上げとされ、「情報は自分で取りにいかないといけない」というような意見が流布する。そういう意見を見かける度に「じゃあ真実的なものはどこにあるのよ」と訝しく思う。テレビにはなく、自分とその仲間内にはそれがあるのだろうか、あるいはネットには真実的なものが転がっているのだろうか。いつ何時も正しい情報を正しく伝え、正しく導いてくれる全知全能の神様的な存在がネットの世界にはいるのだろうか。勿論、いない。Siriは近いうちにその座につくことができるだろうか。勿論、できない。隅から隅まで、とは言わないにしても、ネット上に無限かのように広がる情報はほぼ全て、誰かしらの欲求や欲望に紐づき、資金の多寡や活用法によって区画整理された、主観や感想、あるいはフェイクの集積に過ぎない。グーグル内で用意されている情報は、グーグルの経験則に基づいた、あくまでグーグル内での最適解でしかない。「ググれ」というフレーズは祇園精舎の鐘の声くらい等しく虚しく、僕自身もテレビの情報なんて全くアテにしてないけれども、ある意味、テレビにはスポンサーシップとコンプライアンスによる最低限の節度が保たれている一方で、そういう観点においては、ネットの情報の方がよっぽど欲にまみれてるし、品格がない。騙している具合と騙されている具合で言ったら、ネットの方がむしろ深刻のように思える。

コンビニのサラダは体に不健康だろうか。あるいは健康的なのだろうか。「コンビニ」というのはどの会社のものを指しているのか。いつの時代のものを言っているのか(20年前の品質は今の品質と同じなのだろうか)。たまに食べるのはいいのか、食べ続けると発がんするのか。日常的に野菜を摂取している人にとってのコンビニのサラダと、全く野菜を摂らない人にとってのそれは同じ価値であり、同じ有効度なのだろうか。食中毒のリスクは孕むが栄養価が高く、高価で一部にしか流通しない有機野菜と、水溶性ビタミンは多少損なわれるけれど、食中毒のリスクはなく低価で幅広い層にリーチしうる洗浄野菜はどちらが社会全体にとって健康的なのだろう?、どちらが社会全体にとって不健康なのだろう?ていうか、というか、そもそも「健康」とは何だろうか?社会が一律に規定する「健康」と、自分が自分を慮って目指す「健康」、どちらがどれくらい「健康的」なのだろう?非健康的な健康な人もたくさんいるし、健康を意識するばかりに逆に不健康に陥っている人もたくさんいる。

つまり、ここに明確な回答はないし、断定もできない。あくまでその人のコンディションによるし、あくまでその人の解釈による。コンビニのサラダですら曖昧なのだから、その他多くの難題に断定的な断定を下すのは難しい。全ては五里霧中の中の暗中模索中だ。人と人が数えきれないほどの戦いを繰り返し、大量の血を流した末にようやくたどり着いた強引な平和でさえ、かくも脆いことがかくもあっさり証明されるくらい確かな不確かの中で、となると誰かがいいと言っていたものを「いい」と言いたくなる気持ちもわかるし、すがりたくもなるし、共感は救われるかもしれないが、そもそもどこまでいっても霧中の暗中なのだから、無理に光を射そうとするのではなく、その闇と視界不良を受け入れる方が賢明であり、自然なように思える。願いがあるだけで、回答はない。美味しいうどんを食べたいという願いがあるだけで、ここのうどんは美味しいという回答はない。

けれど、美味しいうどんを食べたいのであれば、ぶらぶら歩いて腹を空かせればいいし、少なくともそういう美味しさがあるのは間違いない。そもそも普段うどんを食べない人にうどんの繊細な機微などわからん。勿論、俺もわからん。であれば、少しでも歩いて、少しでもお腹を空かせたらいい。情報が人々の行動をどれだけコントロールしようとも、逆に言えば人々が情報にどれだけ支配されようとも、多分、この純粋な単純には敵わない。