Journey×Journeyと山本ジャーニーの冒険-独立・開業と「旅食」の航海日誌-

秋葉原の多国籍・無国籍のダイニングバー「Journey×Journey」。独立開業までの過程とオープン後の日々を綴る、山本ジャーニーの営業日報。

1978年4月1日とマジカルリアル。

1978年4月1日。

今から45年前の4月1日ということになる。Wikipediaによると、1938年の4月1日には国家総動員法が公布され、1940年には源泉徴収が始まっている。少し時を経て、1976年の同日にはスティーブ・ジョブスAppleを成立し、1979年にはイラン革命が起こっているが(ちなみに翌80年の4月1日は松田聖子がメジャーデビューしている)、1978年4月1日についての記述はない。特にこれと言って何もない、平和な4月1日だったのだと思われる。

1978年4月1日、神宮球場でヤクルト・スワローズの先頭打者であるデイヴ・ヒルトンが2塁打を打った。その2塁打を見て、作家村上春樹は突然、小説を書くことを突然思い立ったという。以下、Wikipediaより引用。
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1978年4月1日明治神宮野球場で行われたプロ野球開幕戦、ヤクルトスワローズ広島東洋カープ戦を観戦していた村上は、試合中に突然小説を書くことを思い立ったという。それは1回裏、ヤクルトの先頭打者のデイヴ・ヒルトン二塁打を打った瞬間のことだった。当時ジャズ喫茶を経営していた村上は、真夜中に1時間ずつ4か月間かけてこの小説を完成させた。村上にとってまったくの処女作である。

後のインタビューによれば、チャプター1の冒頭の文章(「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」)が書きたかっただけで、あとはそれを展開させただけだったと語っている。村上自身は小説の冒頭を大変気に入っており、小説を書くことの意味を見失った時この文章を思い出し勇気付けられるのだという。また、最初はABCDEという順番で普通に書いたが面白くなかったので、シャッフルしてBDCAEという風に変え、さらにDとAを抜くと何か不思議な動きが出てきて面白くなったとも述べている。妻の「つまらない」という感想に従って、頭から全体的に書き直している

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よくわからないけど(素敵な奥さんだ)、その後、村上春樹は小説家として小説を書き続けている。間もなく6年ぶりの長編も刊行される。まわりくどい言い回しや、鼻につく文体、不必要(と思われる)な性描写が多く、しっかりした一定数からしっかり嫌われている村上春樹だけども、村上春樹以降、村上春樹以上に有名な作家が出てきてないのも事実だし、とにもかくにもノーベル文学賞の候補にまでのぼりつめてるのも事実。僕としては是非受賞してほしいと思うけれど、時代が進めば進むほど難しくなりそうだなとも感じる。何と言っても不必要(と思われる)な性描写が多い。

ハルキストであれば上記、神宮球場での話は有名なんだけど、2塁打を放ったデイヴ・ヒルトンのことも気になる。一人の一解釈はあくまでその人の解釈にすぎず、情報や客観とは到底呼べない。それを「情報」とするならば、それを「客観」としたいのであれば、複数の角度と視座を持つことが重要であると思う。村上春樹に突然小説を書かせたデイヴ・ヒルトンという選手は一体どんな人間だったのだろうか?

彼のWikipediaもある(彼は2017年に67歳で亡くなっている)。
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1971年1月のMLBドラフト1巡目(全体1位)でサンディエゴ・パドレスにで指名され契約。1972年9月10日の対アトランタ・ブレーブス戦で、7番・三塁手として先発出場しメジャーデビューを果たし、5回裏にロン・リードからセンター前にメジャー初安打を放った。1976年オフに金銭トレードで、ジョン・スコットらと共に新球団トロント・ブルージェイズへ移籍した。その後、クリーブランド・インディアンスへ移籍したが、メジャー昇格は果たせなかった。

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978年春季キャンプヤクルトスワローズのテストを受けて合格し、入団。主に1番を打ち、開幕から首位打者を争うほど高い打率を残し、ヤクルトの球団創設初優勝、そして日本一に貢献。

背中を屈めた極端なクラウチングスタイルの打撃フォームが特徴の選手だった。常に全力疾走するなど気迫あふれるプレーを見せた。守備面ではスローイングに難があり、当初のポジションは遊撃手だったがシーズン途中で二塁手コンバートされている。

1979年は成績が低迷してオフに自由契約となるが、阪神タイガース監督のドン・ブレイザーが獲得を希望し入団する。しかし、阪神には1979年のドラフト会議で大阪出身の早稲田大学岡田彰布が指名を受けて入団しており、ファンは岡田の起用を強く望んでいた。

1980年のシーズン開幕後から、ブレイザーはヒルトンを起用するが、ブレイザーは岡田の起用を望むファンやマスコミから総攻撃を受け、ヒルトンもそのあおりを受けて打席に立つたびに岡田コールやヤジを浴びせられることとなる。結局、ヒルトンは打撃不振でシーズン途中の5月10日に解雇され、ブレイザーも5月15日に解任された。2017年9月17日、自宅のあるアリゾナ州で亡くなったことが地元新聞社によって報道された。67歳没。

作家の村上春樹は、1978年4月1日神宮球場プロ野球開幕戦、ヤクルト対広島戦を観戦中に突然小説を書くことを思い立ったという。それはヒルトンが先頭打者として二塁打を放った瞬間のことであった

当時ジャズ喫茶を経営していた村上は、できあがった小説『風の歌を聴け』を「勢いのようなもので」文芸誌の新人賞に応募。翌年1979年に同作品が受賞したことにより、作家としてデビューすることとなった。また村上は、1978年の日本シリーズ直前に渋谷区広尾のスーパーマーケットの近くでヒルトンに会ったときの思い出を、「デイヴ・ヒルトンのシーズン」というエッセイの中で語っている

ヤクルト時代の同僚八重樫幸雄は、ヒルトンについて「ボロボロのグラブを大切にしながら、常にガッツで頑張った。ハートの強さとハングリー精神」に溢れた選手だったと振り返っている
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4月1日になると毎年、このエピソードを思いだす。この日、神宮球場でデイヴ・ヒルトンが打った2塁打を見て小説を書こうと思った村上春樹と、この日、神宮球場村上春樹に小説を書こうと思わせたデイヴ・ヒルトンの2塁打にはどんな相関があったのだろう。何がどのように作用したのだろう、と。けれど、実際的には「相関」も「作用」もなく、あらゆる因果を超えて、ただ単にマジカルなことが起こっただけなのかもしれない。何がどこでどうなるのかなんて誰にもわからない。

2004年12月、ちょうどスマトラ島地震が起こる直前、バラナシというインドの街でインド人と村上春樹の話になった。彼もまたハルキストで僕がハルキストだと言うと、大いに盛り上がったのだけど、その時、彼は「ハルキ・ムラカミは世界で唯一マジカルリアルを書ける人間だ」と言った。マジカルリアル。素敵な言葉だ。


何がどこでどうなるかなんて誰にもわからないし、このエピソードを思い出す度に、今この瞬間どんなマジカルリアルが世界中で起こっているのだろうと思う。全て、とは言えないが、基本的に可能性はオープンだ。そして、そんなことをそんなふうに思うのに4月1日というのはぴったりな日付であるように感じる。