Journey×Journeyと山本ジャーニーの冒険-独立・開業と「旅食」の航海日誌-

秋葉原の多国籍・無国籍のダイニングバー「Journey×Journey」。独立開業までの過程とオープン後の日々を綴る、山本ジャーニーの営業日報。

『Journey×Journeyの冒険』への冒険vol9【ほぼ『ねじまき鳥クロニクル』引用編①】

話は変わり、橘さんが5年前にこのお店をオープンした頃の話になった。

 

 

「浅草や秋葉原で物件探してたんですけどね、なかなかピンと来るのがなくて。困っていたところに不動産屋さんが紹介してくれたのがこの物件です。当時は喫茶店でした。20年くらい続いたお店だったらしいのですが、オーナーがご高齢ということもあり、テナントを探していたというわけです」

 

 

橘さんはその喫茶店を居抜きではなく、一度スケルトンに戻す(建物の躯体のみを残し、内装設備を何もない状態にする)ことに決めた。

 

 

「でも工事に取り掛かる前に物件の前に立って、歩いている人をじっと眺めました。ここを歩く人はどんなものを求めているのか?自分はどんなものを提供すればいいんだろうか?それを探りたくて」

 

 

その観察の中で橘さんは多くの人がお昼時に弁当を入れた袋を提げていることに気付いた。

 

 

「そこで、このあたりで販売されている弁当を片っ端から食べてみたんです。結論として、私はこれらのお弁当の対極に位置するものを提供しようと思いました」

 

 

「橘さん、もし見当違いだったら大変に失礼なのですが…」と僕は口を挟んだ。ニーチェを好んで読むという人がミーハーなものを読むとは思えなかったが気になってしまった。

 

 

「橘さんって村上春樹を読んだりしますか…?」

 

 

と、おそるおそる聞くと…、

 

 

びっくりした顔をして「彼は私の青春です」と答えた。

 

 

不安気に投げた球が内角いっぱいのここしかないというところにずばっと刺さった。ありがとう、ニーチェ。さらば、ニーチェ

 

 

「でも、いきなりどうして?」と橘さんは僕に尋ねる。

 

 

「さっきのお店の前でじっと歩く人を見ていたっていう話なんですが、そっくりな話が村上春樹の小説の中に出てくるんですよ。それでちょっと気になって」

 

 

「随分読み込んでるはずなんだけど、浮かんでこないな。ちなみにどの作品の、どのシーンでしょうか?」

 

 

「『ねじまき鳥クロニクル』です」

 

 

ねじまき鳥クロニクル』。約20年前、1994年に発行された村上春樹の長編小説であり、代表作でもある。

 

 

下記、本文より引用(部分的に省略)。

 

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「たとえばだね、どこかに店を一軒出そうとする。レストランでもバーでもなんでもいいよ。いくつかの場所の選択肢がある。でもどこかひとつに決めなくちゃならない。どうすればいい?」

 

僕は少し考えてみた。「まあそれぞれのケースで試算することになるでしょうね。この場所だったら家賃が幾らで、借金が幾らで、その返済金が月々幾らで、客席がどのくらいで、回転数がどれくらいで、客単価が幾らで、人件費がどれくらいで、損益分岐点がどれくらいか…そんなところかな」

 

「それをやるから、大抵の人間は失敗するんだ」と叔父は笑って言った。「俺のやることを教えてやるよ。ひとつの場所が良さそうに思えたら、その場所の前に立って、一日に三時間だか四時間だか、何日も何日も何日も何日も、その通りを歩いていく人の顔をただじっと眺めるんだ。何も考えなくていい、何も計算しなくていい、どんな人間が、どんな顔をして、そこを歩いて通り過ぎていくかを見ていればいいんだよ。そのうちにふっとわかるんだ。突然霧が晴れたみたいにわかるんだよ。そこが一体どんな場所かということがね。そしてその場所がいったい何を求めているかということがさ。もしその場所が求めていることと、自分が求めていることがまるっきり違っていたら、それでおしまいだ。別のところにいって、同じことをまた繰り返す。でももしその場所が求めていることと、自分の求めていることとのあいだに共通点なり妥協点があるとわかったら、それは成功の尻尾を掴んだことになる。計算なんかあとでいくらでもできる。俺はね、どちらかというと現実的な人間なんだ。この自分のふたつの目で納得するまで見たことしか信用しない。理屈や能書きや計算は、あるいは何とか主義やなんとか理論なんてものは、だいたいにおいて自分の目でものを見ることができない人間のためのものだよ。そして世の中の大抵の人間は、自分の目でものを見ることができない。それがどうしてなのかは、俺にもわからない。やろうと思えば誰にだってできるはずなんだけどどね」

 

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“随分読み込んでるはずなんだけど、浮かんでこないな”

 

 

村上春樹は私の青春です」と言う橘さんが本当にこのシーンを覚えていなかったのかどうかはわからない。けれど、どうであれ、この物件の前に立ち、通り過ぎていく人々をそれを眺める橘さんの光景は容易に想像できた。