思いどおりにいかない。
思いどおりに集客できない、売上が上がらない、利益が残らない。人が集まらない、スタッフに伝わらない、仕組化できない。改善しても改善しても食材原価はあがる、いくら効率化しても追いつかないくらいに人件費率もあがる(人件費があがることは別に悪いことじゃない)。その体質と構造を克服したかと思ったら、今度は冷蔵庫が壊れてその努力の大半が吹っ飛ぶ。冷蔵庫を新調したら、今度は製氷機が動かなくなる。製氷機を修理したら、今度は予約がピタっと止まる。何事もなかったかのように予約の人数が半分になり、何事もなかったかのように団体の貸切がキャンセルになる。丁寧に接していたつもりのスタッフがトぶ、傷つけないように優しくしていたスタッフが店内不正をはたらく。
といった具合で、色々と、まったくもって、思いどおりにいかない。
夫が協力してくれない、妻が理解してくれない、子供が言うことを聞いてくれない、こんなに大切に育てたのになんで…、ダイエットしてるのに痩せない、(この辺りは自分には経験がないのであまりわからないが、よく聞く話として)、こんなに頑張ってるのに評価されない、認められない、誉めてくれない、部下が…、上司が…、最近の若者は…、学校は…、社会が…、時代が…、
といった具合で、やはり思いどおりにいかない。
なんらかのストレスを感じる時、なんらかのフラストレーションが溜まる時、イライラする時、人を裏切ろうと思う時、裏切る時、悪事を働こうと思う時、悪事を働く時、シャットアウトする時、絶望する時等々、
そうした全てのネガティブの根底には「思いどおりにいかない」があるように思える。なんらかの事情と理由で、おそらく「思いどおりにいっていない」。
でも、そもそも、思いどおりにはいかないものだ。そりゃそうだ、自分が自分の事情と哲学を以って、今まさに「ここ」で生きてるように、自分の隣にいる人はその人の事情と哲学を以って、今まさに「そこ」で生きている。「隣」はあくまで「隣」で、「ここ」と「そこ」は限りなく近い。自分の隣にいる人は自分の思いどおりには動かないし、自分は自分の隣にいる人の思いどおりに動かない。多分、基本、みんなそうで、そうではない誰かと誰か、何かと何かがあるのであれば、それは美しい奇蹟がたまたま起きてるだけだ。
そもそも何故、自分は自分の思いどおりになると思っているのか。
あるいは、そもそも何故、あなたはあなたの思いどおりになると思っているのか。
自分よりも頭のいい人はたくさんいる。頭の良さだけではなく、自分よりも思慮深い人もたくさんいる。自分よりもお金と時間を持っている人もたくさんいる、それだけならまだしも、「まだしも」というか頭の良さもお金も全く関係ないくらい、単純に、自分よりも努力してる人はたくさんいる。
「単純に、自分よりも努力してる人はたくさんいる」。
にも関わらず、何故、この期に及んで、自分の思いどおりになると思っているのか。何故、自分の思いどおりにならずにイライラしているのか。他人のせいにしているのか、恥ずかしげもなくガチャという言葉を用いるのか、社会や時代に責任転嫁しているのか。
何かのせいにしたい人、何かに擦り付けたい人は今すぐガザか南スーダン(もしくはイエメンかシリアかパブアニューギニアかグリーンランドか北朝鮮か南極か)でその想いの丈をブチまけてきてほしい。「それは極論だ」と言う人がいるかもしれない。でも、本当にそうだろうか?今「ここ」で起こっていることと、今「そこ」で起こっていることは、現代において、それほど離れているだろうか。ほんとうに「極論」だろうか、と思う。
自分の思いどおりにいかないように、あなたの思いどおりにもいかない。そして、自分の思いどおりにいかない時にどう立ち回るかにこそ、本来的な資質が現れる。自分の思いどおりにいかない時に「何か」や「誰か」のせいにするなんて、まさに骨頂極まる愚で、愚極まる骨頂だ。「大人であれば、自分の目の前で起こる出来事全て、自分の責任だ」と思っていた方が心はいくらか健やかになる。と思う。
そもそものそもそも、自分の思いどおりにいかないことは本当にネガティブなのか。思いどおりにいかないから面白いのではないだろうか。本来、「面白い」というのは、思いどおりじゃないから「面白い」。「一面が白やむ」と書いて、「面白い」。
これから先、ジャーニー×ジャーニーと自分に「全然思いどおりじゃない」ことが2つ起きる。1つめは明日始まり、2つめはおそらく一年後ぐらいに起きる。2つとも、全然思いどおりじゃない。
思いどおりであれば、一面は白やまない。
そうじゃないから、面白い。
人それぞれだろうけど、できれば、できるだけ、面白いほうがいいなと、自分は思う。