Journey×Journeyと山本ジャーニーの冒険-独立・開業と「旅食」の航海日誌-

秋葉原の多国籍・無国籍のダイニングバー「Journey×Journey」。独立開業までの過程とオープン後の日々を綴る、山本ジャーニーの営業日報。

「商売不繁盛論」と「冒険」④-小説『Journey×Journey』後編-

小説『Journey×Journey』の主人公は「僕」ではない。自分の世界一周に基づく紀行文を書いたところでたかが知れてるし、凡庸で、興がない。それを実現できるかはさておき、書くのであれば「凡庸ではなく、興のあるもの」を目指したい。



この物語では5人の旅人を主人公にしている。タイのバンコクボリビアのアマゾン、オーストラリアの「12人の使徒」、エチオピアのアワサ湖、インドのプリ-を舞台に、それぞれの旅人のそれぞれの旅を描く群像劇の形式を採用した。旅は人間を生々しく深く抉る。旅人が孕むそうした生々しさを小説という表現を通してフォーカスしていきたいと考えている。だから、テーマは「旅そのもの」よりも「旅人」になるのかもしれない。「旅は素晴らしい」、「旅に出よう」という文脈は世の中に十分に溢れている(逆も然りだけども)。僕も旅に魅了された一人として、心からそう思っているが、そうした想いを小説にのせる意義はさしてない。


「旅人」と言っても、その意味は広い。バックパックを背負ってる者だけを旅人と指すわけではない。バックパッカーにピントを合わせると、バックパッカーに向けた文章になってしまうので、『Journey×Journey』においては「旅人」を広義に捉え、物語に側面と重層感を持たせるように努めている。


第一章の主人公は大学生の「五十嵐信夫」。彼自身、海外には全く興味がないが、恋人の希望でタイに短期旅行に行く予定を立てていた。ところが出発直前になって、恋人に振られる。信夫は半ば自暴自棄にタイに渡航。食堂で知り合ったバックパッカーに誘われ、要領を得ないままバンコクのゴーゴーバーへ。隣に着いた女の子は信夫の人生において、未だかつてない美女で、錯綜するネオンと芯まで響く重低音の中で、未だかつてないキスを経験する。ところが、彼女はニューハーフだった(話の筋としては取り立てて物珍しさはない)。


下記、小説『Journey×Journey』より引用。

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実は男だと知って、彼だか彼女だかを突き放すことが成年男子として健全な反応なのだろうか?騙されたと憤慨し、店を飛び出るのは許される行為なのか?もしくは、「何事も経験」というありがちなロジックを持ち出して、強引に対処すればいいのだろうか。さりとて、若気の至りとかこつけて、先方に対する敬意もないがしろに面白がるのはいかがなものだろうか。女であろうが、男であろうが、この人が現実に僕にもたらした恍惚は撤回のしようのない、また記憶からデリートすることもできない、揺るぎない確かな感触だった。あとで男と知ったからって、その恍惚を無碍に反故にするのっていうのはさ、何だかとても偏狭な話のように思えたし、何より彼女(でいいや)に対してフェアじゃないことのような気がしたんだ。

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第2章では信夫を振った恋人がボリビアのアマゾンに行くストーリーに転回する。


5人の旅人のそれぞれの旅は独立したものでありながら、それぞれに結びついている。実際、僕自身の世界一周がそうであったように、自分の旅は常に他の誰かの旅と交差している。そのすれ違いざまのスクランブルだったり、交差後のパラレルが旅を俯瞰した際に湧きだす面白味だと僕は感じている。そうした人間模様と人生賛歌の切れっぱしを描きたい。小説『Journey×Joureny』の「×」にはそのような意味を込めている。


もし、これが形になれば、他に類を見ない旅小説になるのではないかと思っている。旅をオムニバス形式で取り扱った作品を僕は知らないし、「旅人自身」にフォーカスにした小説もあまり見かけない。


とは言え、探せばあるかもしれない。ここまででは「凡庸ではなく、興のあるもの」にはならないかもしれない。


僕が『Journey×Journey』にロマンを感じるのは、ここで描かれる5人の旅人とは別にいる、まだ見ぬ「6人目の旅人の6つ目の冒険」だ。6人目の冒険は他の旅人の話を聞いた上で、僕がストーリーを起こしてもいいし、僕ではない誰かが続きとして6つ目の冒険を書くというのも面白いんじゃないかと思っている。


そういうことができればロマンチックだなあ、と僕は妄想する。







クールな現実とクールに向き合うのも僕の仕事だが、



ロマンチックな妄想とロマンチックに向き合うのも僕の仕事だろう。





 

 

 

「商売不繁盛論」と「冒険」③-小説「Journey×Journey」前編-

採用がうまくいったとしても、うまくいかなかったとしても、今年は店舗運営とは別に新しいことに挑戦していきたいと思っている。その一つが小説『Journey×Journey』の執筆と完成。ここに「出版」という文字も加えたいが、実際にそこまで持っていくのはちょっと現実味に欠ける。それに、「小説」というのは表現方法の一つであり、「出版」というのは形式の一つ。小説にも出版にも意志はあっても、執着はない。


では何故、小説『Journey×Journey』を目標とするか。


どんな仕事も大変であり、尊い。大変で、尊いからこそ、そこに然るべき対価が生まれ、報酬や給料が発生する。うまくつけこんで楽して報酬を得る人もいれば、ズルをして給料をかっさらう人もいる。けれど、楽をするにも、ズルをするにも、知恵と根気が必要だ。マクロにそう考えれば、世の中に簡単な仕事なんてない。


その中でも飲食業はやはりタフな仕事だと思う。ある程度は経験と工夫で緩和することができたとしても、飲食業の拘束力は如何ともしがたい部分がある(開業当初はなおさら)。生産性と業務効率の改善は当たり前の至上命題であると同時に、常に神話性を帯びている。現実は神話のように優しくない。


でもだからと言って、「飲食ってそういうもんだから」とあっさり屈するのも癪だ。どうにかしてこの神話を切り崩していきたい。


本業を持ちながら、並行して、あるいはサイドビジネスとして飲食業をまわすというケースは少なくない。けれど、その逆は稀だ。飲食業で独立した事業主が他の事業を起こしたり、レバレッジを効かせた展開を図るのは難しい(勿論、その境界線を踏み越えていく成功者もたくさんいるのだけど)。これはひとえに飲食業が宿命的に孕む拘束力がネックになっているのだと思う。


ここで言う「拘束力」には2つの側面がある。一つは時間的拘束。店が主体者及びスタッフを拘束する時間が長いという問題。軌道に乗って、一定の売上を担保できるようになれば対応の余地はあるけれど、その領域に早い段階で達することができるのはごくごく限られた店舗であって、一般的ではないように思える。もう一つは属人的拘束。もしオーナーシェフとしてずっと現場に立っていたいのであれば、この属人性は問題にならないが、そうでないのであればここも関門となる。個人店のアイデンティティはその店の経営者や店主のパーソナリティに直結している。それが自分の店を持つという喜びであり、個人店の醍醐味でもあるのだけど、場合によってはリスクでもある。「店」と「自分」が完全に同一化すると、そこから離れるのが極めて難しくなる。「あの人がいるから、あの店に行く」という図式は飲食ならではの幸福であると同時に「拘束」を意味する。



飲食業を取り巻く数々の問題の原因も突き詰めれば、この一点に集約されているように思える。


この拘束が時にやりがいを与え、時に疑心と閉塞感をもたらす。経営者や主体者はやりがいがあろうがなかろうが、閉塞感を感じようが感じまいが、基本的にはとにかくやるしかない。けれど、その切実かつ必死な現実をその店で働く社員スタッフに100%、共有するのは難しいし、そもそもその必要もないと思う。スタッフは何らかのメリットがあるから、そこに所属しているのであり、そのメリットを見出せなければ残るのは「このままでいいのだろうか」という疑心と、「このままではどこにも行けない」という閉塞感だけだ。


独立や将来の成功を目標に掲げ、強固な信念を持っていれば多少大変なことがあっても走り抜くことができるかもしれない。でも、飲食従事者はそういう人たちばかりではないし、飲食業がそういう人たちだけで成り立つわけでもない。


だから、お店の主体者は働いてくれるスタッフに何らかの「明確なメリット」を提示し、疑心や閉塞感を寄せ付けないような環境を作っていかなければならない。頑張るのはその先に明るいものがあるからであり、薄暗い行き止まりに近づくために汗水垂らしているわけではない。僕はそういうマネイジメントを目指したいと思っているわけだけど、実践しうるのはまだ当分先の話だろう。まずは自分自身がそうした疑心や閉塞感を克服していかなければならない。


飲食業が持つ拘束力は上記したように、時間的拘束と属人的拘束の2つの側面を持つ。けれど、根幹にあるのは自分が自分を縛る拘束だと思っている。「ずっと店にいなければならないから、他に何もできない」という強迫観念とも言える暗示だ。まずは店の主体者である僕自身がその暗示を打破していかなければならない。


小説『Journey×Journey』はそのためのベンチマークだ。「他に何もできない、ということはない」という反証を小説『Journey×Journey』を通して、示していきたい。商売不繁盛論はその反証への冒険のための一手でもある。


反証作業はできるだけ実利的でないほうがいい。かつ、店舗運営と直接的でないほうがいい。より地道で、よりクラフトでなければ、反証としての価値はない。そして、店舗の運営者でありながら、プレイヤーでもある今取り組むからこそ意味がある。万が一、出版されたとしても、さして利益は見込めないだろう。と言うか、実利はほぼないに等しい。でも、書く。ありったけのエネルギーを注いで、書く。


小説『Journey×Journey』の構成はもう出来ている。「完」まではあともう一息というところだけども、「完成」まではまだ程遠い。


でも、書く。


ありったけのエネルギーを注いで、書く。


(この記事を書くだけでも5時間近く要しているが…)


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「商売不繁盛論」と「冒険」②-採用-

前々回の記事に書いたように、僕はオープンしてからこの1年8ヶ月の間、「商売不繁盛論」をベースに店舗運営を進めてきた。結果として、まだまだではあるけども、それなりの成果は出たと思うし、一定の手応えも感じた。基本姿勢はこのまま変えず、前のめりにならぬよう、できるだけ丁寧に運営を進めていきたい。


でも、ここから先、自分の思い描くイメージを実現していくためにはもう一歩踏み込んだ、攻めのストロークが要される。もっと「冒険」していかなければならない。


その第一は仲間を増やしていくこと。ずばり、採用。


J×Jとしては初めて、ゼロから採用活動を始めようと思います。今まではもともと目途をつけていた人に、言わば一本釣りのような形でジョインしてもらってきたけれど、今回は全くのフラットな場所から採用活動を始めていくことになります。他の飲食店の方々がどうなのかはわからないけれど、僕はこの未開の地にけっこうドキドキしてます。そして、ワクワクしています。



とは言え、求人広告を出して、展開していこうとも思ってません。採用や求人広告は今後勉強していかなければならない項目の一つだけど、現時点ではそれで自店とうまくフィットする人を採用できるイメージが湧かないし、外した時の損失が大きい。スタッフを多く抱える店が複数人の同時採用を目標とするのであればともかく、スタッフ1人を採用できるかどうかを目指すにはコストのかかる「広告」はリスキーだと考える。


なので、当面はブログやSNSなどで地道に進めていくしかないかなと考えています。募集期間はいったん今日から4月末までを目途に、断続的に取り組んでいきます。


求人は1人、社員、調理経験者もしくは海外の食文化や多国籍料理に強い興味を持つ方、の採用を目指します。さらに、店舗運営や総合的なマネイジメントを求めている方がいれば理想的。


本当はここで、給与面含めたもっと細かい募集要項や応募条件も示していかないと思うのだけど、現時点ではその提示はあえて控えようと思っています。


シフトや予算面から生じる「枠」に対して「ヒト」を当てこむのではなくて、その「ヒト」に対して「枠」を用意したいし、作っていきたい。だから上記にアバウトな募集要項は書いたけれど、もしお互いに整合性を持てるのであれば、社員という勤務体系じゃなくてもいいし、調理スタッフにこだわらなくてもいいかなという気持ちもある。


結局すごくふんわりしちゃったけど、


採用もまた不確かな手探りの中、進めていきたい。


J×Jで働くことに興味を持ってくれた人がもしいれば、まずは飲みに行きましょう。


*お問い合わせはお店の電話番号、

08040965577

に直接お電話いただくか、もしくは、

s.yamamoto.jj@gmail.com

までメールをもらえると幸いです。よろしくお願いします。

担当:山本






百姓「山本ジャーニー」のジャニーズ「嵐」への冒険

「のぶあきおじさん」(仮名)は僕から見て4親等(多分)にあたる、いわゆる「親戚のおじさん」の一人だ。今は故郷である山口に帰省する機会をあまり持てていないし、帰ったとしてもどうしても時間がタイトで、ろくに挨拶にも伺えていない。早くお店を落ち着かせて、このあたりの慌ただしさを改めたいと思ってはいるが、とにかく、僕は「のぶあきおじさん」とすっかりご無沙汰だ。

なので、僕は今の「のぶあきおじさん」を語ることはできない。昔のままかもしれないし、昔とは一転しているかもしれない。ただ今、ここでスポットライトを当てたいのは25年前の「のぶあきおじさん」であり、25年前の「僕」だ。


この『百姓「山本ジャーニー」のジャニーズ「嵐」への冒険』は25年前の山口まで遡り、2016年12月のお台場を経て、2017年1月3日の秋葉原に至る。


幼少期の僕に映る「のぶあきおじさん」はとにかくよく飲む人だった。自分含め親族一同、皆、大酒飲みなので珍しいことではないのだけど、その中でものぶあきおじさんは突出していたように思える。正月や、お盆は朝起きて、顔だけ洗って、そのまま缶ビールのプルトップを引く、そういうレベルだ。僕も飲む方だけど、寝起きビールの領域には未だに辿り着けていない。


僕がおじさんに挨拶に行くのは決まって正月かお盆の帰省中だったので、飲んでるイメージが色濃く、素面の残像はなく、そもそもノンアルコールのおじさんを僕は知っているのだろうかと疑わしいほどだ。


そんな「のぶあきおじさん」だが、「大酒飲み」に加え、がっちりとした体格で、声量も大きい。多少口は悪いが(おじさん、ごめん‼)、ガンガン喋り、ガンガン飲み、白も黒も一緒くたにしたユーモアを派手にばらまいて、いつもまわりを笑わせる。そして、自身もまた「ガハハッ」と大笑いしながら、また酒を飲む。何と言うか、とにもかくにも豪快なのだ。


普段は厳格な父もおじさんと飲むときはとっても楽しそうだったし、なかなか見れない一面が見れたりして、子供ながらにその時間がけっこう好きだった。同時に、おじさんのそのただならぬ豪胆さは桁外れの迫力を放ち、小学生の僕を圧倒し、威圧した(勿論、おじさんにそんな意図はなく、僕が一人でビビッていただけだが)。


そんなある日、両親に外せない用事があったのか、初めて僕と弟だけで「のぶあきおじさん」に挨拶に行くことになった。「もうお兄ちゃんなんだから、K(弟)を連れて、挨拶に行ってきなさい」みたいな具合で。僕はマジか…、と戦慄しながら、弟を連れて、恐る恐る大魔神の居城を訪ねた。


缶ビールを片手に「ガハハッ」と現れたおじさんは、弟の頭を撫でながら「おお‼よく来たな、ジャニーズ‼」と言った(弟は僕とは正反対で、ジャニーズ顔のイケメンなのだ)。僕は魔神にいい子いい子されるジャニーズを誇らしげに眺めていた。なんだ、全然大丈夫じゃないか、僕たちだけでちゃんと挨拶できるじゃないか。ガハハッ。


 

「で、お前は何しに来た、百姓」



魔神が振り下ろした斧は僕のハートを一刀両断に引き裂いた。



 

今思えば、やっぱりおじさんは面白いよなあと思う。「ジャニーズ」とのコントラストに「百姓」かあ、とそのワーディングのセンスに惚れ惚れする。これが例えば「不細工」だったりしたら、全然シャープじゃない。この鋭い切れ味は出ない。


と、今では思うけど、思春期手前の僕にはそれなりに刺さる一言だった。この一件は僕の心に刻まれ、その後、好きな女の子が森田剛の下敷きを持っていたり、掌にマジックで「堂本光一ラブ」と書かれているのを見る度に、僕は劣等感に苛まれる羽目になった。

 

 

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時は流れ、2016年12月。タクシーの車内、レインボーブリッジの先に見える球体を眺めながら、「のぶあきおじさん」のことを思い浮かべていた。





百姓の尊厳と意地を胸に、ジャニーズへの冒険が始まった。


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しかし、僕の断固たる決死行はあっというまに緊張に支配された。加速度的な緊張は走馬燈となって、過去をフラッシュバックさせた。

 

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初めてお店にゲストが来た時のことや、

 

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世界一周に旅立った日の空だとか、

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女の子に初めて告白したあの夏の日の駐輪場だとか(フラれた)、

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今までの半生において経験したありとあらゆる「緊張」が頭の中を駆け巡り、

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僕は「無」になった。

 

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「無」になった。

 

 

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緊張は限界値を超えると「無」に還るということをこの日初めて知った。

 

 

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2016年12月31日。僕は久しぶりに「のぶあきおじさん」に電話で話した。



「わしゃ、そんなこと言うたんか。覚えとらん、ガハハッ」。


と、言っていた。相変わらずの、のぶあきおじさんが僕は好きだ。




最後に。


この冒険は多くの方々のご協力とご理解の上に、奇蹟的に成立したものです。何かがほんの少しでもずれていれば実現しえないものでした。関係各位に心から感謝します。


そして、今回は25年前の「のぶあきおじさんと僕」を軸に据え、物語を展開したけれど、いつかまた、時間を置いて、この冒険がいかに奇蹟だったかを描きたいと思ってます。

 

そのためには百姓の尊厳と意地を胸に、コツコツとした日々をコツコツと積み重ねていくしかない。



さすれば、こんな日もやがてめぐる。



自分の世界一周がこんなふうに取り上げられることになんて夢にも思わなかった。深夜のデニーズで一人、あのアルバムを作りながら、その「意味」を自問自答していた自分に言いたい。



「全ての可能性はオープンだ」。



*写真は放送直後、僕の真似をするスタッフ茜とお昼寝から起きる中華屋のおじさん。

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全ての可能性はオープンだ。





「商売不繁盛論」と「冒険」①-総論-

常々思っていることではあるけれど、時が経つのが早い。とりわけ、この12月は矢の如き光陰だった。随分前から最も繁忙期であるこの12月に照準を合わせて、諸々進めてきたけれど、終わってみればあっというまだ。


そして、今日、一年前の大晦日のブログを読み返してみた。書いてある内容も、年末を通して感じたこともそう変わらない。


ただ、ブログの進行速度が恐ろしいほどに遅い。去年の今頃はちょうどお店がオープンする2週間前のことを書いている。そして、その一年後、つまり今日の時点でオープンのタイミングで自分が考えていたことをまだ書いている。この一年の間でブログ上の物語はたった2週間しか進まなかったということだ。リアルタイムでは間もなく2017年という新年を迎え、ブログは未だに2015年の4月を彷徨っている。気付かぬうちに1年8か月もの乖離があることに自分自身、驚嘆している。矢の如き光陰は兎の如し、ブログは亀の如し(むしろ、亀にも劣るし、亀に失礼だ)。


しかし、翻って言えば、それだけちゃんと作りこみたかった内容だったということでもある。芽となり、葉となる物事も始めは「種」だ。この商売不繁盛論もまたやがて「何か」として実り、「何か」を結ぶための種になると僕は思っている。種は日の目を見る必要はない。ただじっと地中で活力を蓄えておけばいいのだ。


そして、その種も今日で植え終わる。最後に、この膨張した商売不繁盛論をコンパクトに圧縮して一区切りとしたいと思う。


重複になるが、一言で言えば「最適化」だ。短期的ではなく、長期的なスパンを見据え、「売上・利益」、「健康状態」、「スタッフの安定性」を段階的に最適化していく。その最適化がうまくいけば、お店は自動的に継続性を持つことができる。継続性があれば、無理な営業や肉弾戦に持ち込むことなく、余裕を持ってゲストと向き合い、余裕を持って経営に取り組めるようになる。


オープン当初、自店にとっての最適だったのが商売繁盛の対極、つまり商売不繁盛だった。


何故ならば、

自分に対してそこまで自信がなかったからであり、

おまけに、自分と飲食未経験のスタッフと2人きりという薄氷の体制で、

けれど、運よく借入はなかったので金銭的なプレッシャーが少なかったから


という3つの理由があったからだ。



不繁盛に持ち込めば、当然、機会損失を招く。作れたはずの売上を手放すことになる。けれど、それと引き換えに、労働力をゲストとの関係構築に充てることができるゲストとの距離を適正に保つことができる。その関係性と距離感が店とゲストの双方にとって心地よいものであれば、営業は健全に保たれることになる。


営業が健全であれば、縮小均衡のスパイラルに陥ることなく、予算を最適に分配することができる。仕入れか、人件費か、設備投資か、ポジティブな予算はポジティブに消化され、昇華される。年齢と環境変化に伴い、自分の友人たちの足が遠のいたとしても、万が一、Web上で一方的な悪意に晒されたとしても、影響はミニマムに抑えることができるだろう。そのようにして維持される成長曲線は多少、緩やかだったとしても、角度が鈍かったとしても、社会的心象を損なうことはない。第三者からの心象が悪くなければ、お店は可能性と次なる展開を秘め続けることになる


夢見がちなストーリーに聞こえるが、けして理想論ではない。どんな経営にも必ずリスクは伴う。判断すべきはいつ、どこで、どんなリスクを負うのかだと思う。このストーリーラインが理想論じゃないのは入口で、ホイッスルとともに不繁盛というリスクを負っているからであり、入口に設置されているがゆえ、そのあとの展開が綺麗に映るだけだ。


店は生き物だと思っている。勿論、スタッフやゲストとともに育まれていく生き物だけど、やはり一番は親である主体者の意識が色濃く投影される。主体者に余裕がなければ、店全体の余裕が失われるし、逆に主体者がリラックスしていれば店全体もリラックスする。


メンタルもフィジカルも常に一定に、というのは難しい。わかっていても難しい。どうしてもムラは出てしまう。でも、その不可避なムラも自分自身の工夫次第で、ある程度和らげることはできると思っている。その「工夫」というのが僕の場合、商売不繁盛論の採用だ。だから、オープン当初だけの一過的な戦略としてだけではなく、自分の根本的なスタンスに据えたいと考えている。





オープンして以来、この1年8ヶ月、不繁盛論に基づき、ずっとディフェンシブだった。じっと慎重に進めてきて、12月の繁忙期を終えた今、それなりの手応えを感じている。まだまだだけども、少なくともこの航路とこの速度は間違っていない。



けれど、不繁盛論をひたすらに徹底するというのも味気ないものだ。



不繁盛論に徹するのであれば、ブログのタイトルは『J×Jと山本ジャーニーの商売不繁盛論』であるべきだ。





このブログは「冒険」と名乗っている。



さすれば、冒険しなければならない。




来年はちょっと冒険してみようと思っている。





 

J×Jの冒険-2015年4月⑬「商売ほどほどに繁盛論」vol2-

大切なのは「継続そのもの」よりも「どう継続させるか」。


売上や利益は「継続」における必要条件ではあるけれど、同時にその一つに過ぎない。継続していくには他にもいくつかの要件が必要で、自店の場合(おそらくほとんどの個人店が同様であると思うけど)、その最たるものとして「スタッフの安定」と「心身ともに健康であること」の二つが挙げられる。



このどちらかが欠けると、たとえ利益が上がっていたとしても店を継続することは困難となる。この2つの要件があってこその利益であり、同時に、利益があって初めてこの2つの要件が成り立つ。「どれが一番大切か」に回答はない。どれも等しく一番に大切だ。


継続とはすなわち、利益、スタッフ、健康の3点から成る三角形の重心を一定に保つこと。

 

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この三角形の面積が「自分たちができることの範囲」を示すのだと思う。だから、成長とはすなわち、重心を一定に据えながらこの三角形の面積を広げていくこと。

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この三角形を形成する3点のうちのいずれかが歪み始めると重心が揺れ、あるべき形を保てなくなる。バランスを取り戻さないかぎり、その三角形は沈むことになる。売上や利益を上げ、それをスタッフに還元することができればモチベーションになるかもしれないし、労働環境の改善や福利厚生の充実に予算をまわせば健康面は自他ともに整えられていくだろう。けれど、オーバーペースは必ず弊害を起こす。売上や利益だけをひたすらに追求する盲目的な労働はスタッフが離れていく原因になるし、スタッフはおろか自分自身が体調を崩してしまえば全てパーだ。


交通事故の原因のほとんどがスピードの出し過ぎであるように、企業によって引き起こされる問題や不祥事の根本にあるのは売上・利益至上主義の過度な加速にあると思う。社会問題のような大きな事柄だけではなく、小さな会社や店舗で起こっている問題の多くもまた、結局はここに由来している、ような気がする。それが過剰であれ、不足であれ、三角形を成す一点の中で最も脆く、危ういのがこの「売上・利益」という点だろう。


何事も「行き過ぎ」は良くない。そうわかっていても前のめりになって、アクセルとブレーキの制御を失うケースは少なくない。成長過程で欲に目が眩むパターンもあれば、見栄やプライドを先行させてしまうパターンもある。けれど、そうした傾向は主体者個人の内的な問題よりも、世の中が根本的に競争原理の上に成り立っているからだと思う。自分自身はジョギング程度に抑えて走りたかったとしても、競争相手にペースを乱されるのは往々にしてあることだ。そして、さらに相手は他者だけではない。どの企業にも、どの店にも当てはまるが、最も負けられないのは一年前の自分との競争だろう。いわゆる前年比、昨対比は第三者からの評価において、外せない指標の一つとなる。


銀行や公庫などその他の第三者は去年に比べて優秀なスタッフが増えた、だとか、一年前の今頃に比べて健康状態が改善された、なんていうところには当然着目しない。ただひたすら、クールに数字を見つめ、クールに判断する。彼らにとってはそれがお店の成長性であり、将来性であり、与信であり、一緒に仕事すべきかどうかの判断基準だ(勿論、それだけじゃないかもしれないけど、それぐらいのつもりでいた方がいいと僕は思っている)。「今月、よく売れたなー」という喜びは裏を返せば、一年後の「枷」でもある。だから、がむしゃらな追求は一年後に過酷なサーキットを与えることになる。そして、下手をすれば健康面に影響を及ぼし、スタッフの安定性の低下へと繋がる。イニシアチブの強い主体者やマネイジメントが上手なリーダーはこのハードなレースをハングリーに楽しみ、健全さを保ちながら、スタッフを明るい方向に導くのだけど、僕にその手腕はないと思っている、少なくとも今のところ。


あらゆる競争から身を引き、第三者からの視線を無視し、牧歌的にのんびり過ごすというのも在り方として賢明だ。けれど、一店舗の運営の先に見据えるものがあるのだとしたら、レースから降りるのは難しい。そして、僕は後者だ。だから、他者のペースに乱されることなく、一年前の自分たちに照準を合わせ、その競争にはきっちりと白星をつけていかなければならない。目標とする成長率をクリアできる見込みが立てば、あとはほどほどにして、余剰分は三角形の他の2点のために使った方がいい。健やかに働き、やるだけやって、健やかに休み、健やかにサボりたい。


映画でも観るか。

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川遊びにでも行くか。

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寝るか。

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さすれば、三角形が大幅に歪むことはないし、競争原理も正常に機能する。と思っている、と言うか、信じている。





大切なのは「継続そのもの」よりも「どう継続させるか」。






その所以はつまりこういうことになる。






*スタッフの寝顔に落書きが書かれているのは外部の人間の仕業であり、主体者(僕)はこの犯行に一切加担していない(犯行現場にはいたが、ボジョレーヌーボーという睡眠薬を飲まされていたため、寝ていた)。なお、投稿写真について落書きされていない写真も提案したが、全て棄却され、本人から渡されたのがこの一枚だった(この写真はその中でも比較的マシだということだ)。







J×Jの冒険-2015年4月⑫「商売ほどほどに繁盛論」vol1-

商売不繁盛論vol2(9月10日の記事)の中で僕は以下のように書いた。

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ポイントは「売上をどう抑えるか」であり、「どう下げるか」ではない。言い換えれば、「どう最適化するか」。自分の身の程をわきまえた上で、自分の身の丈にあった営業をする。一言で言えば、そういうことになる。

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「一言で言えば」と書いたけれど、まさにこの一言に尽きる。であれば、vol2で終わりにしてもよかったのだ。にも関わらず、3ヶ月かけてこの大長編をとにかく書き進めた。これだけの時間と労力をかけたのにはそれなりの理由がいくつかあるのだけど、この文章を「自分がいつか最大化に傾斜した時のブレーキにしたかった」というのが一番の理由かもしれない。

勿論、店舗を運営していく上で「最大化」を図るタイミングはあると思う。アクセルを全開に踏むべき一瞬はあるし、何が何でも売上を作らなければならない時もあるだろう。けれど、その状態がデフォルトになるのは極めて不健康であり、不健全だと僕は思っている。オーバーワークの先にあるのはただひたすらの疲弊であり、それがただひたすらに繰り返される。その皺寄せが経営者やオーナー本人に降りかかるのであればともかくとして、それは大概スタッフに振り分けられ、商品やゲストにまで降りかかるケースもある。そうなれば悲惨の一途を辿るだけだ。


企業の目的は何か。
(自店はまだ個人商店だけれども)


 「利潤の追求である」と真顔で答える人は今時少ないと思うけど、中にはそう言う人もいるだろう。ゴーイングコンサーンに基づき、「継続」と回答する人もいると思うし、「社会貢献」と答える人もいるかもしれない。


自分たちの仕事や店舗が何らかの形で社会貢献に繋がれば素晴らしいことだと思う。だが、胸を張って「社会貢献」と口にするためには相応の、そして相当の実績を積み重ねていかなければならない。そのためには利益を出さなければならないし、勿論、継続もしていかなければならない。


その上で、大切なのは「利益そのもの」や「継続そのもの」よりも「どう利益を上げるか」、そして「どう継続させるか」だと思っている。これはダイエットの感覚に近い。強引なダイエットに反動はつきものだし、無理なダイエットは身体に予期せぬ負担をかける。そうしたところで維持はできないし、努力は水の泡となり、振り出しに戻る。下手をすれば振り出しよりも後退する。このような本末転倒を回避するためには「痩せることそのもの」よりも、「どう痩せるか」と「どう維持するか」を考えるべきであり、導き出した「How」を現実的かつ計画的に実行していく必要がある(もっとも、僕にダイエットを語る資格はないのだが)。


インターネットがもたらした変革は世界に夢をばらまいた。起業や独立の敷居を下げ、門戸を開き、世界を加速させた。スピードが価値となり、スピードが評価基準となり、あらゆる場面でスピードが問われるようになった。オンラインの世界でスピードが生命線になるのはわかる。「味」が飲食業の根本的な要件であるように、「スピード」がこうした事業の要件に位置づけられているし、とにかく収益を上げて、ぐんぐんスピードを上げて、ずばっとイグジット、というゴールも選ぼうと思えば選べる。


飲食業はなかなかそうはいかないし、オンラインのそうした価値観の対極にある。にも関わらず、同じようにスピードを価値とするのにはそもそもの無理があるし、そうした風潮に飲食業が乗っかるのを訝しく思う。わずか1年で2店舗目、たった5年で10店舗、そうしたフレーズは誰のためにあるのだろうかと思うし、そうしたフレーズに踊るのは本人だけだ。2店舗目には2店舗目の必要性が必要で、5店舗目には5店舗目の必要性が必要であり、その必要性を持たずに踊り続けるダンスフロアにはきっと自分以外、誰もいない。と、自分は自分にそう諭している。肩肘張らず、道中、ゆっくり景色を眺めながら楽しんでいこうと。


過度なスピードは出さず、過度な傾斜もつけず、低め低めから始めて、然るべき成長速度と、然るべき成長角度で、緩やかでありながら確かな成長曲線を描く。そうデザインするのが自分の性分に合っているし、主体者として自分が据えるべき視座だと思うし、適正な利益と継続性を導くための近道なのではないかと考えた。


何より、多分、それぐらいの温度でいるのが一番楽しいはずだ。



盛者必衰の理は平安時代から語り継がれている。盛者でさえいつかは必ず衰えるのだ。不盛者は自らをどう継続させ、どう成長させるか、逆に言えば「どう衰えないか」をより慎重に考えなければならない。





という見地に立てば、最初から「栄えようとしない」というのはけして愚策ではないと個人的に思っている。




オープン当初、自分にとって最大化は不適切で、最適だったのが不繁盛であり、それがめぐりめぐって、のちのちの「ほどほどの繁盛」に繋がると信じていた。








今(2016年12月)はまだ当初の「のちのち」の手前で、
今はまだ当初の「ほどほど」には至らない。





 

 

 

J×Jの冒険-2015年4月⑪「商売不繁盛論」vol11-

ゲストとの「距離」と「距離感の質」を模索し続けてきた結果、2016年11月現在、「あかね覚書」として一つの形になった。あかね覚書とは簡単に言えば、スタッフあかねによるお客様ノートで、店内で得たゲストの情報を記載したものである。好き嫌いなどの単純なものから、適切なボリュームや、嗜好性、仕事や生活環境、自店利用におけるプライオリティ、決済手段や領収書の有無など店内で知りうる情報を記憶・記録する。そうした情報を活かして、きめ細かく個々に応じたサービスに反映させ、ゲストの選択肢の中でより「使いやすい店」としてポジショニングすることが覚書の意図だ。


現在、350名ほどの情報が記載されているが、その一つ一つの情報量は少なく、精度も粗い。実践に落とし込めているシーンはわずかだ。12月の繁忙期を通して、ブラッシュアップさせ、今後、活用の幅を広げていきたいと思っている。


覚書については『J×Jの冒険』が『2016年11月』まで進んだ時にまた改めて触れたい(一体いつになるだろうか)。


2015年4月において、僕はこの覚書を一年以内に作り上げたいと思っていた。実際はその半年遅れになったわけだが、上出来だ。勿論、理想には程遠いけれど、自分が思い描く適切な距離を紡ぎ、自分が望んだ関係性をそれなりに構築できたと感じている。


忙しい店ではこの距離の作り方は難しい、と思っている。売上が担保されていて、人員が十分に配置されているのであればやりようはあるかもしれないし、実際にできている店もあるだろう。けれど自店はその条件に該当しないし、自分自身、スピードが要求される肉弾戦の中でゲストの情報を引き出し、適切な距離を探る余裕はない、そして、その能力もない。


昔、何かの本で「100人と浅く繋がるよりも、100人と繋がっている1人と深く繋がるほうがいい」と読んだことがある。これは人脈作りやコネクションの話であり、この手の話の延長線上にあるのは大抵、自己啓発や啓蒙の領域で苦手だけども、通ずるところはあると思っている。自店のような店が近隣住民や会社員に、立ち位置を作っていくためには「数」は重要ではない。何となくの100人ではなく、自店のコンセプトやテーマや強みを理解してくれる、と言うか、楽しんでくれる「1人」と然るべき距離を築くことの方が大切なのだ。そうした「1人」をグリップするためには、情報の送受信が必要で、こちらが提供できるものを示し、相手が何を求めているかを敏感にすくい上げていかなければならない。100人の中ではその情報は埋もれてしまう、でも10人の中であれば見出すことができるはずだ。


いつも290円均一の居酒屋で飲んでいる100人のゲストからすれば、自店が意図していることをちゃんと伝え、ちゃんと表現しないかぎり、ただの「高い店」になってしまう。自店はコンセプトにのっとり、焼酎や日本酒の代わりに海外ビールや珍しい国のワインを用意しているわけだが、焼酎・日本酒派や王道のワイン派の100人からすれば、ただの「品揃えの悪い、飲む酒がない店」になってしまう。

 

何となくの100人では100人分の何となくの反感を買い、100人分の不幸をばらまくだけになる。そして僕らは100人分の徒労を拭えないまま、気だるい明日を迎える。まさに最大多数の最大不幸福だ。そうなるくらいなら不繁盛である方がずっとマシだ。自店のコンセプトやテーマや強みを理解してくれる、と言うか、楽しんでくれる「1人」がお店を信頼して10人を連れてきてれる方がゲストにとっても、お店にとっても「最適な幸福」と言えるだろう。


 

僕自身、商売には向いてないと思っている。計算は苦手だし、営業力もない。けれど、生活はありとあらゆる商売と密接に結びついていて、ありとあらゆる商売の上に成り立っている。否応にも「商売」は目に入ってくるし、成功している商売と失敗している商売を眺めることになる。その中で、こうすると行き詰まるんだろうなあ、という持論を持つようになった(どうすれば商売が上手くいくかはわからない)。

 



僕は商売が行き詰まったり、歪んでくるのは最大化を追うからだと思っている。


 

自店は最大多数の最大不幸を回避し、

 

最大多数の最大幸福には早々に見切りをつけ、

 

最適多数の最適幸福を目指す。






最大化ではく、最適化。




商売不繁盛論は正確に言えば、「商売を最適に繁盛論」となり、不繁盛はそのために生じる現象の一つに過ぎない。

 

 

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*写真は19世紀に「最大多数の最大幸福」を論じた功利主義の創始者ジェレミ・ベンサム





 

J×Jの冒険-2015年4月⑩「商売不繁盛論」vol10-

然るべき「距離」を保つ、

 

またその距離を「適切に縮める」、逆に「適切に遠のく」、

 

そして、その「距離感の質を高める」こと、

 

それは今の自分が最も大切にしていることであり、その距離を測り、距離感を模索し続けるのが主体者としての自分の仕事だと思っている。


距離は全ての物事にある、と前回の投稿で書いた。逆に言えば、物事を決定づけるのは距離にあり、距離感とその質が自分(主体)と客体の関係性や環境を形成する。

例えば、特定の恋人を作らないまま、自由に気兼ねなくいろんな女のコと飲みに行くA君がいる、とする。複数の女のコたちと一定の距離を保っていたA君だったが、やがて、その中でも最も付き合いが長く、気心の知れたCさんと交際を始めた、とする。

一般論で言えば、この時点でA君を取り巻く環境は多かれ少なかれ、変動することになる。Cさんとの距離は縮まり、同時に、飲み友達だったBさんやDさんとの距離は遠のくことになる。A君が何とも思ってなかったとしても、それまでと同じように女のコと飲みに行くことを恋人であるCさんは快く思わないかもしれないし、彼女がいるA君と二人で飲みに行くことをBさんやDさんは敬遠するようになるかもしれない(あくまで例えばであり、あくまで一般論における仮定だ)。

A君とCさんの距離が縮まれば、縮まるほどA君を中心とする相関図は決定的なものになっていく。婚約、入籍、結婚、妊娠、出産。ステージが変われば当然、物事の縮尺は変わり、バランスも変わる。Cさんを生涯の伴侶とすることがA君の幸福論において最上の選択であると断言できるのであれば、BさんやDさんとの関係性を顧みる必要は特にない。が、そうでないのであればCさんとの距離を決定的にするのはA君にとって賢明とは言えない。A君は特定の人に踏み込まず、踏み込ませず、自分にとっての幸福を慎重に時間をかけて模索すべきだろう。


物事を決定づけるのは距離であり(Cさんとの距離であり)、距離感とその質(Cさんとのステージやバランス)が自分とその他の関係性や環境(BさんやDさんとの関係性や環境)を形成する。


店舗運営もA君のこうした心境や状況に通ずるものがあるのではないかと思っている。

 

馴染みのある者同士でワイワイする店を目指すのであれば、それに適した距離の詰め方があるし、ビジネスライクに進めるのであれば、それに適した距離の置き方がある。その両立を果たすためには、当然、そのための距離と距離感を紡ぐ必要がある。「とにかく作って、とにかく売る」という店はゲストとの距離をどれだけ無機質なものにするかがポイントになるのかもしれない。


商売不繁盛論⑧で僕は下記のように売上構成をシミュレーションした。

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オープン当初、僕は、

カテゴリー①「近隣の住民や会社員」
カテゴリー②「身内(僕の友人や知人)」
カテゴリー③「Webからの流入客」

の3カテゴリーから成る売上の構成比は、1:8:1ぐらいになると予測していた。当面はほとんどが僕の知人で近隣もWebも全体の1割くらいだろうと。これを1年かけて、5:4:1くらいに推移させ、2年が過ぎるころには6:2:2に着地させたいと思っていた(思っている)。

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自店は特定の人との交際を目指していない。目指すのはあくまで6:2:2の付き合い方だ。カテゴリー②「身内」に該当するCさんとはある程度気心の知れた仲だし、一定の理解を示してくれる。反対に、カテゴリー③「Web」に該当するDさんは会ったこともないミステリアスな存在だ。Dさんを振り向かせるためにはそれなりの金額を貢がなくてはならないし、深追いすると、想定以上につぎ込んでしまいそうだ。


まず第一に僕が考えるべきは最も身近にいるBさん(近隣住民や会社員)だった。この店で自分が思い描くイメージを体現し、活路を見出すためにはまずはBさんとの距離を縮め、お互いにとって心地よい距離感の中で、友好的な関係を築かなくてはならない。良き飲み友達にならなければならない。


例え話が飛躍したのでここで話を元の軌道に戻す。


率直に言えば、背広を着たサラリーマンのおじさんたちが入りやすく、そして彼らに居心地の良さを感じてもらえる店にしなければならなかった。自分が一般企業で働く会社員で、かつ、歳も40,50代であったとしたら、僕はJ×Jで飲みたいと思うだろうか?ましてや、通りすがりに目に入る店内が毎夜毎夜若者たちで溢れていたら、おじさんである僕はどう思うだろうか?


初期の段階でどれだけレッテルを払い落とせるか、どれだけ固定観念を振り切れるか、が最大のテーマだった。僕はCさんと付き合ってるわけでもなく、結婚してるわけでもなく、Bさんとも、Cさんとも、Dさんとも、それぞれ適切な距離で接していきたい。それが僕の思うのところの、「多国籍」であり、「無国籍」であり、J×Jの在り方だった。

オープン当初のJ×Jを利用してくれた会社員の方々は「俺らみたいなオヤジたちが来ちゃってごめんねー」と冗談交じりに僕によく言っていた。飲み慣れない店内の雰囲気にそわそわし、聞き慣れないメニューに落ち着かない様子で、ハイボール黒霧島があることに大いに安堵していた。



一年半経った今、定期的に自店を使ってくれる「オヤジたち」(と、あえてここでは言わせていただく)にそうした素振りは見受けられない。ごく自然と、J×Jを使いこなしてくれている。


それは多分、お店がおじさんたちを始めとした近隣の会社員の方々と、


然るべき距離を保ち、

 

またその距離を適切に縮め、

 

そして、その距離感の質を高めてきた、


からだと思っている。これについては多少自負できる。



どうすれば自分たちが自分たちの思い描く「距離」を紡げるか。

 

単純な話、ゲストにどれだけ興味を持てるかであり、もっと単純な話、ゲストのことをどれだけ知れるか、であると思う。現代風に言えば「顧客管理」だが、「管理」ではない。ただ単純に何を求めているかを知り、感じればいい。

 

 

 

そして、それは一年半の歳月を費やし、


 

 

2016年11月現在、「あかね覚書」として結実した。

 

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→vol11に続く






 

 

 

 

 

 

J×Jの冒険-2015年4月⑨「商売不繁盛論」vol9-

神保町に僕が学生の頃によく通っていた大衆居酒屋がある。当時僕は21,22歳で、それから12年近くの歳月が流れているが、還暦近い大将はあの頃と変わらず今でも現場に立っている。創業は1979年。35年の歴史がそのまま店内に滲み出る、いかにもで、いわゆるな大衆居酒屋。「この店のここがいい」とか「こういうところがいい」とか、そういうのではなく、ひたすら「なんとなくいい」、そういう店だ。

落ち着いたら行こうと思っていたが、店を始めてから一度も伺えずにいた。先日、ちょうど近場で飲む機会があったので久しぶりに行ってみることにした。

「神保町に俺が学生の頃によく行ってた店があるんだけど、今度の飲み、そこでもいいかな?フツーの居酒屋だけど」

「了解です‼なんていうお店ですか?」

「〇〇〇だよ」

数分後、

 

「わー、食べログの点数、めっちゃ高いじゃないですかー。楽しみですー」。


と、返信が来た。


あの店も点数つけられてるんだな、と思った。繁盛店なのでお客さんはたくさんくるし、それだけ食べログユーザーが多いのは当然のことなのだけど、今まで一度もあの店の評価や点数を意識したことがなかったので、ちょっとハッとしてしまった。子供の頃から通う、家の近所にある中華食堂の点数など改めて気にするだろうか?それをうっかり覗いてしまったような気分になった。


家の近くの中華屋さんにしても、この神保町の店にしても僕の中では「点数」がつく店ではない。というより、「数値化」できる店ではない。そもそも、これだけたくさんの店がある中で画一的な数値化など可能だろうかと甚だ疑問だ。

 

人は人格を持つ人を数値で評価しない。

 

法人格を持つ法人は点数をつけられたりしないし、まして公表されたりしない。

(帝国データバンク東京商工リサーチの信用調査はあるけれど)

 

給与や収入の多寡はその人の「数値的」な評価と言えるだろう。売上や資産はその法人の「数値的」な指標となるだろう。世間にはランキングが溢れ、何から何までランク付けし、ランク付けされ、ヒエラルキーは存在し、マウンティングは暗躍している。成績表は1~5の数字で構成され、テストは0~100の間で配点される。採用も人事査定も数値化することによって便宜的に進められているだろう。



が、「君は1だ」とは誰も言わない。「君の算数の成績は2だ」とは言うし、「君の昨日のプレーは4だ」とは言うが、「君は1だ」とは誰も言わない。誰がどんな物差しを持てば「人格」を測れるのだろうか。複雑なアルゴリズムは「人格」を公平に、公正に数値として算出できるだろうか。


 

「店」にしても同様だと僕は思っている。店には店の「人格」がある。


 

自店が最も価値と満足度を高めることができるのは複数人の団体客によるコース利用だと思っている。だから、営業もオペレーションもそれを基に設計している。1店舗で複数のニーズを同時に充たすのは困難で、1店舗目で感じたジレンマは2店舗目や他の手段で埋めていくのが妥当だと考えている。ただゲストにとってみればそんな設計図なんて関係ない。お一人様で来て、ご飯を撮って、ご飯を食べて帰る。そういうゲストがいれば、それがそのゲストにとってのJ×Jであり、そこで得た感想がそのゲストのJ×Jへの評価だ。そして、その成績表は否応なしにネット上で公のものとなり、その評価を見て来店を希望するゲストがいて、その評価を見て来店を希望しないゲストがいる。少なからず、どちらもいる。



点数の上下に一喜一憂しない。


クチコミの内容に右往左往しない。


オープン当初の時点で考えていたのは、いかにして早くこの状況を作れるか、だった。仮に低い点数がついたり、ネガティブなレビューが刻まれたとしても、どうすれば毅然としていられるか。答えは単純で、僕にとっての神保町の大衆居酒屋のような立ち位置を目指せばいい。ネット上の情報に左右されない、あるいは見向きもしないゲストに定着してもらうこと。



そのために初期の段階で裾野は広げなかった。戦線をできるだけ後退させ、縮小させる。オンライン、オフラインともにプロモーションは極力制限し、できるだけひっそりとこっそりと進める。


今まで記してきたように分母を減らすことによって、粗相やミスマッチを防ぐという消極的な理由もあるけれど、それよりも重要なのは「距離」と「その距離の質」だと思っている。


ゲストとの距離、スタッフとの距離、原価と売価との距離、時間と生産性との距離、理想と現実との距離、など全ての物事には「距離」がある。距離感を見誤ると相応の歪みが生じる。実際にこれまでその歪みによるいくつかの失敗をした。けれど、然るべき距離を保つこと、また適切に縮めること、逆に適切に遠のくこと、そして距離感の質を高めることは常に念頭に置いてきたし、それが商売不繁盛論の本質だと僕は考えている。