年末から年明けにかけてのドタバタで蓄積された疲労に加え、タイに来てからのハードスケジュールによって、くたくただった身体にマッサージは思った以上に有効で、まさに会心の時間となった。
マッサージ屋を揚々と後にし、次のミッションへと速やかに移行する。加藤が欲しいというTシャツを買いに行ったとしても、時間はまだ十分にある。それに念には念を押して、マッサージを規定の1時間から45分に短縮した。この15分ものちのちに活きてくるだろう。
そう、まだ慌てるような時間ではない。ではなかった。
が、しかし、タクシーがいっこうにつかまらない。バンコクの中心部において、タクシーがつかまらないことなんてそうはない。故意的に人通りの多いところから離れたのが裏目に出たのか、ほとんどのタクシーが乗車中で、待てども待てども空車が通らない。
ようやく見つかったかと思えば、おそらくは新人のドライバーで目的地までのルートに対してあからさまに不安気。iPhoneの地図機能を赤信号になる度にいじっていた。おまけに僕が思ってる方向と反対に走り始め、細い路地に入った。「まあでもこの奥の細道、もしかしたら偉大なるiPhoneが示したとっておきの裏道かもしれない。この局面で、俺、運転手、iPhoneの3者であれば誰が最も信頼に足るだろうか」と言い聞かせた矢先、その裏道で空前絶後の渋滞にはまってしまった。
「心頭滅却すれば…」と念仏を唱えるかのように繰り返す。渋滞もまた涼し、渋滞もまた涼し。取ってつけたかのようにこさえた念仏が極楽に届くわけがない。平静を取り繕うのはやめて、僕は堂々と焦ることにした。
しかし、焦ったところでまたどうにもならない。モーゼのように海は割れないし、前の車は厳然としてびくともしない。
想定外に想定外が重なり、時間は絶望的におしていた。結局、やっとの想いでTシャツ屋に辿りついたのは18時30分。OUKYというブランドで何の変哲のない無地のTシャツだが、これがどえらい人気のアイテムらしい。そして、何十種類もある色の中からお気に入りのものを物色する加藤。
さっさと決めろよ…、と言いたいところだが、OUKYの時間を考慮していなかったのは自分なのでそこは飲みこむ。けれど、焦る気持ちは加藤も同様。Tシャツの色をあんなふうに鬼気迫る形相と様相で決める客もそうはいないだろう。
店を出たのは18時40分。遅くとも19時30分には中心部を後にし、郊外にあるホテルに向かわなければならない。残された時間はあと50分。ルーフトップバーまでタクシーで行くか否か。大した距離ではない。タクシーに乗れば10分もかからないうちに到着するだろう。けれどここに至るまでに散々な目に遭わされた渋滞という脅威に出くわすわけにはいかない。さすれば、歩くか。否…、そして、否…。
すると、ふとバイクタクシーのお兄さんたちの姿が目に入った。考えてみれば、この手があった。現地人の交通手段と勝手に決め込んでいたので今まで使ったことがなかったが、こんな時こそバイクタクシーではないだろうか。このバイクタクシーに活路を見い出した。
行先を告げ、金額を交渉し(かなりふっかけられたが、適正価格まで持っていく時間も惜しかった)、後部座席に乗り込んだ。
睨んだとおり、バイクタクシーは車と車の隙間を縫いながら、スピードを落とさずぐんぐんと進む。グランドフィナーレとなる「マリオットホテル」は目の前だった。
18時55分、バイクはマリオットホテルのエントランスに滑り込む。支払いを済ませ、ルーフトップに駆けあがろうとしたその時に言いようのない違和感を覚えた。
恐る恐る、ドアマンに尋ねる。
「この上にオクターブ(バーの名前)があるんですよね…?」
「エクスキューズミー、サー」とドアマンは言う。
「ここは、
『スクンビット・パーク・バンコク・マリオット・エグゼグティブ・アパートメント』。
お客様がお求めの“オクターブ”は、
『マリオット・エグゼグティブ・アパートメント・バンコク・スクンビット・トンロー』
にあります」
と丁寧に説明してくれた。
なるほど、同じマリオットでも、違うマリオットに来てしまったということか。
時計を見ると、19時01分。
ジーザスとガッデム、そしてアーメン。
オーとマイ、そしてゴッド。
この痛恨の誤算に心が折れた。B・Q・SU、万事休す、か。
同時に、後方からバイクタクシーが2台こちらの方向に流れてくるのが見えた。
まだ勝機は潰えてない、ということか。
「加藤、こうなったら意地でも行こう」と悲壮の決意を胸に、再び、バイクタクシーに飛び乗った。
19時02分。
そして、これより人生において類を見ない、濃密かつ白熱した28分を繰り広げることになる。