Journey×Journeyと山本ジャーニーの冒険-独立・開業と「旅食」の航海日誌-

秋葉原の多国籍・無国籍のダイニングバー「Journey×Journey」。独立開業までの過程とオープン後の日々を綴る、山本ジャーニーの営業日報。

『J×Jの冒険』への冒険vol16.【妄想デッドヒートと池尻さんとの冒険】後編

賃室申込書に僕が設定した家賃を記入し終えると、池尻さんは神妙な面持ちで「本当にその金額でいいんですか?」と僕に尋ねた。

 

 

その質問の意味が僕にはよくわからなかった。他に応募者がいないのであれば、オークションのように設定する家賃について駆け引きする必要はないはずだ。僕と不動産会社の間に双方の合意があればそれで成立する。この短い間に心変わりがあったということなのだろうか?やっぱりもうちょっと高くしよう、そういうことなのだろうか。

 

 

「実際のところ、山本さんにとってこの金額ってどうなんですか?」

 

 

と池尻さんは要領の得ない質問を続ける。

 

 

僕はその意図と真意を汲み取れないまま、正直に答えることにした。できるだけ慎重に。

 

 

「正直な話をすれば、この金額は私にとってちょっとしんどい数字です。あくまで御社が提示した金額を基準に設定した金額であって、少し無理をしている感は否めません。例えて言うなら、息を切らしながらジョギングしている感じでしょうか。この金額より少しでも安ければ、もっと気持ちよく走れると思うのですが」

 

 

率直なところだ。

 

 

「なるほど。じゃあ、○○万円にしましょう」

 

 

と言って、彼は僕の手元にあった賃室申込書を手にとり、記入された元の数字をそのまま器用に池尻さんが言った○○万円に修正した。訂正線も引かず、訂正印も押さなかった。何らの交渉も、余地も、躊躇もなく、勝手に値下げされたのだ。僕はその奇妙とも言える光景をただ黙って眺めていた。ここって、高度資本主義社会のど真ん中であってるよな、と己の立ち位置を疑いながら。

 

 

「池尻さん、あ、あの、いいんですか?」

 

 

「ええ、全然大丈夫です。山本さんの言葉を借りれば、まさに気持ちよく走っていただきたい。やる気のある若い人に長く続けてほしい、それだけです」

 

 

橘さんが池尻さんについてこう語っていたのを思い出した。

 

 

「池尻さんは素晴らしい人格者だと私は思っています。担当が彼でよかった。池尻さんもきっと山本さんのことを気に入るんじゃないかな。不動産業というのは街を創る仕事です。池尻さんにしたって、そうした街づくりを担えるような、若くて、活力のある人に任せたいと思うはずです」

 

 

それを聞いた時、僕は疑っていた。そんなに甘いものじゃないだろう、と。橘さんは確かに風変りで、俗世に頓着がないかもしれない。けれど、大体の人はめくるめくお金の世界の中でめくりめいている。そして、僕自身もそのサーキットの中を駆けまわる一人だ。吊り上っていくだろうと想定した家賃を中心に、妄想デッドヒートを膨らませ、疑心を並走させていた。商売をしていく上で、それはそれではずせないことなのだろうけど、かと言って、それを先行させ、先走らせるようなこともしたくない。荒んだサーキットの中で、擦り減っていくだけだろう。

 

 

「で、次はこれです」

 

 

と言って、手渡されたのが賃室賃貸借契約書。

 

 

「これは正規のものではありません。これをもとに双方の最終確認の上、正式な契約書として製本していきます。でもその前に、橘さんと造作譲渡について話し合ってもらう必要があります。その交渉に私たちは関与しません。お二人の間で金額を決めていただければと思います。橘さんと話がついたら連絡ください」

 

 

「わかりました」

 

 

次は橘さんとの交渉になる。

 

 

「私からは以上です。私はもう出ますけど、山本さんはどうされますか?」

 

 

「僕はちょっとこのまま残ります」

 

 

「そうですか、ではまた」

 

 

池尻さんが店外に出たのを見届けたあと僕は店員を呼んだ。

 

 

「お酒って飲める?」

 

 

「はい、大丈夫ですよ」

 

 

「じゃあ、これを一つ」

 

 

店内の壁に貼ってあったポスターを指差して、ジムビームのソーダ割りを注文した。この時、何故ビールを頼まなかったのか自分でもよくわからないけれど、多分、炭酸のキツいやつを欲したのだろう。ビールよりも、気持ちが静まるだろうと思ったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

けれど、それで落ち着くはずもなく、それから勤務先含め、秋葉原の馴染の店で3軒、ハシゴ。

 

 

 

 

静まらぬ、33歳の誕生日だった。