Journey×Journeyと山本ジャーニーの冒険-独立・開業と「旅食」の航海日誌-

秋葉原の多国籍・無国籍のダイニングバー「Journey×Journey」。独立開業までの過程とオープン後の日々を綴る、山本ジャーニーの営業日報。

『J×Jの冒険』への冒険vol 17.【大義のないソロバンははじくまい】編

「山本さんからの最初の提示金額が○○万円だったりしたら、どうしようかと思ってました。この話、白紙に戻すことだって考えてましたから」

 

 

橘さんは笑いながらそう言っていたが、僕は身のすくむ想いだった。危ない、非常に危なかった。

 

 

橘さんとの造作譲渡をめぐる交渉の顛末。

 

 

物件には2種類ある。居抜き物件とスケルトン物件。前者は前テナントの内装や設備、什器などが残っている物件で、後者は室内が建物躯体のみ、あとは何も残っていないという物件のこと。どちらがいいかというのは一概には言えず、それは開業者がどう考えるかの一点に尽きる。スケルトンから始めればデザインもレイアウトもある程度自由がきくが、その代わり、何もないところから始めるだけにコストも跳ね上がる。反対に、居抜きの場合、必要なものをそのまま引き継ぐことになるので内装工事費を大幅に抑えることができる。ただし、基本的な作りは前テナントを踏襲することになるし、もし解体や改築が必要になってくる場合、結局予算以上のコストがかかるということも少なくない。

 

 

僕の場合、スケルトン物件という選択肢はなかった。予算的にも、時間的にも居抜き物件をおさえる以外にない。さらに言えば、大幅な工事を要することなく、必要となる厨房器具を入れることが可能で、かつ、25席以上の席の確保、さらに長方形ではなく正方形の間取りをしていること、それが条件だった。そんな居抜き物件を秋葉原で見つけること自体、ほとんど奇蹟に近いのだが、その奇蹟が降ってきて、さらに奇蹟的なまでに軽やかに不動産屋との仮契約までこぎつけた。

 

 

残すステップは現テナントである橘さんと交渉、つまり、今のお店の内装設備を僕がいくらで買い取るか。冷蔵庫、冷凍庫、ガス台、製氷機などの厨房機器、テーブル・イス、食器類、細かく挙げればキリがないが、新たに導入するとなるとこれだけでもかなりの金額となる。さらに言えば、ダクト(業務用換気扇)と業務用エアコン。橘さんはスケルトンから立ち上げているので、この二つに相当な金額を投じている。一千万まではいかなくても、それに近いくらいの費用がかかっているはずだった。

 

 

 

 

ひっくるめて、それをいくらで買うか。橘さんに渡す造作譲渡金はいくらか。

 

 

 

 

一つ一つの機器を細かくチェックするようなことはなく、何となくの状態だけ何となく把握した。素人判断で物件の状態を判断することは危険と言われるが、専門業者など第三者に入ってもらってフェアな交渉に持ち込むよりも、単純に自分の予算を鑑みて、金額の上限を設定し、あとは信義則に委ねるというのが橘さんとの交渉においては妥当に思えた。本来であれば、食器の枚数やスプーン、フォークの数も数えておいた方がいいと言われるが、そういうこともしてない。

 

 

ずばり、最終的に着地させたい金額を見据えて、その金額の7掛けの数字を最初の提示とした。本当であればもう少し抑えたかったし、橘さんであれば極端な数字を言っても頓着なく二つ返事で飲むかもしれない。それに交渉相手は僕しかいない。僕が言う金額を受け入れるしか選択肢はない、お店を手放すのであれば。

 

 

という打算は少なからずあった。しかし、それをするのはやめた。大袈裟に言えば信義則にのっとったということになるが、単純にその安い金額を提示することに前向きな気持ちになれなかった、というほうが強い。

 

 

話は戻り、

 

 

「山本さんからの最初の提示金額が○○万円だったりしたら、どうしようかと思ってました。この話、白紙に戻すことだって考えてましたから」

 

 

橘さんは笑いながらそう言っていたが、僕は身のすくむ想いだった。危ない、非常に危なかった。

 

 

「だって、ここまで来て最後の最後で山本さんのいやらしいところとか、汚いとこ、見たくないじゃないですか。もし、とんでもない金額言ってきたら、この話、あっさり引っ込めてたと思います。よかった、よかった。さあ、ビールでも飲みましょう」

 

 

 

 

結局、双方の提示金額のちょうど真ん中の金額で折り合いがついた(僕が据えた上限ジャストだ)。僕たちはビールを飲みながら、造作譲渡契約書に捺印した。

 

 

 

前回の池尻さんとの交渉においても、今回においても、僕がもう少し「お金」に重心を寄せていたら、こんなふうにうまく話がまとまることはなかったんじゃないかと思う。池尻さんや橘さんが僕の中に捉えたのは「お金」ではなく、それ以外の「何か」だったということは言える気がする。そして、その「何か」というのは存外、意志だとか意欲だとか、言ってしまえば「やる気」といったような、中学校の部活で叩きこまれるようなことなのかもしれない、とさえ感じた。

 

 

 

勿論、この話は全国を席巻するような巨大な商談でもなければ、未来に羽ばたいていくベンチャービジネスの話でもなく、東京のある一角の、ある片隅の、ある裏路地の一室をめぐる、極めて小じんまりとした物語だ。「頑張ります!!」がまだ通用する世界なのだろう。けれど、今回の件を通して、「お金」に飲みこまれるような目には遭いたくないなと改めて思った。現に、橘さんや池尻さんのような人間は実在し、現に、僕は彼らがいるサイドにいて(今のところ)、そして対岸に渡りたいとは思わない(今のところ)。結局、「お金」は物差しの一つにしか過ぎない。便利で、互換性があって、伝えやすく、伝わりやすい、これに取って代わる指標はなく、この泣く子も黙る物差しによって物事を測り、そして、物事は測られていく。

 

 

けれど、物差しが測るのではない。物差しを使う人間が測るのだ。お金が人を幸せにしたり、お金が人を守るのではなく、主語はあくまで、それを使う「人」と、それを受け取る「人」だ。さすれば、目指すものも見えてくる。

 

 

 

目先のことに目がくらみ、正当化を正当化した時、勘定は歪む。

 

 

 

大義のないソロバンははじくまい。

 

 

 

当たり前のことだけど、橘さんや池尻さんを通して、そう決めた。