Journey×Journeyと山本ジャーニーの冒険-独立・開業と「旅食」の航海日誌-

秋葉原の多国籍・無国籍のダイニングバー「Journey×Journey」。独立開業までの過程とオープン後の日々を綴る、山本ジャーニーの営業日報。

「ヤマモトさん、あなた、今日死ぬかもしれないの」物語vol2

アベンジャーズ-エイジ・オブ・ウルトロン-』を鑑賞し終えると他に気を紛らわすものはなくなってしまった。朝6時。寝れればそれに越したことなかったけれど、おそらくは無理だろう。規格外の痛みだ。であれば、とにもかくにも最速で病院に行くのが賢明だろう。幸い土曜日、午前中の診察は大体どこも行っている。

グーグルで検索するといくつかクリニックが表示された。僕はその中でできるだけ評価が低い、患者が少なそうなところを選んだ。僕が望んでいるのはこの扁桃腺の痛みを少しでも緩和することその一点のみで、あとは何も求めない。先生の診察が雑、受付が不愛想、そんなレビューどうだっていい。受付の愛想の良し悪しが僕の扁桃腺に何か関係するだろうか。おそらくこのレビューを書いたレビュアーの体調にも全く関係がない。けれどこうした評価をあたかも正義を振りかざすかのように書く人がいる。ジョン・レノンがそんなこと書くだろうか。イチローはどうか、ブラッド・ピットはどうか。ストレス社会が生んだストレスフルな人のストレスフルな評価なんてまず評価できない。

診察開始は9時にも関わらず、いてもたってもいられず8時40分には目星をつけていたクリニックに到着した。が、その時点で15人ほどの患者が待機していた。マジかよ、と愕然とした。9時前に並んでもいいなら並んでもいいよ、って書いてよ。けれど、ここから他のクリニックに移動する気力はない。もう痛すぎて自然な呼吸もままならないし、水を飲むにも勇気と深呼吸を要する、声を発することもできない。ここでじっと並びながら、耐え忍ぶしかないのだ。そもそも、それだけ悪いレビューを書かれるっていうのはある意味人気の裏返しでもあるのだ。分母が大きいから単純に、相対的にそうしたネガティブなレビューを書かれる。ほんとに患者がいない不人気なクリニックであれば、ネガティブなレビューすら出てこない。

 

ようやく自分の順番になった。ここまでに1時間要している。

 

「ヤマモトさん、これ、もう入院かもね」と女医は言った。女医に雑な感じは受けない、むしろ聡明でクレバーな印象の方が強い。けれど「入院」というワードには驚いた。なんなら僕はロキソニンをもらいに来ただけ、ぐらいの心持ちだったのだ。「ごはんもろくに食べられないんでしょ?栄養とらないと治るもんも治らないからさ、点滴入院しなきゃだよ」

 

しまった、と思った。「全然食事もできなくて」なんて言わなきゃよかった。

 
「喉もちゃんと見てみるねー」と言い、SF映画に出てくるような得体のしれない器具を鼻の穴からするすると忍ばせた。

 

「あー、思った以上に厄介だね。写真撮るね。ヤマモトさん、これ、ちょっと危険だよ。場合によっては気管、開けなきゃかも。つまり手術かも」。

 

といった具合に状況はどんどんエスカレートしていって、最終的には、

 

「はっきり言うと、思っている以上に危険な状況よ。ヤマモトさん、あなた、今日死ぬかもしれないの。この写真に写ってる痰がね、もし喉をつまらせちゃったらきっちり呼吸困難になる、つまり窒息」。


人生で初めて聞くワードを一文でどれだけ盛り込むんだ、と思った。危険な状況、呼吸困難、窒息、「死ぬかもしれない」。三連休の初日の暖かい土曜日、鳥のさえずりが先ほど始まったばかりの穏やかな時間、僕は生まれて初めて死を示唆された。耳鼻咽喉科にて。

 

耳鼻咽喉科にて‼

 

…。

 

けして耳鼻咽喉科を軽んじるわけではないのだけど、「死」というパワーワードが繰り出されたことによって僕はちょっと笑ってしまった。緊張感の張りつめた心臓外科でもないし、生と死が隣り合わせの救急病棟でもない、待合スペースでは子供たちがキャッキャしている極めて温かで、穏やかな耳鼻咽喉科なのだ。テレビは散歩番組を放送している。今日は小田原だ。

 

「入院を受け入れてくれる病院があるかどうか確認してみるからちょっと待っててねー」と言って、女医は段取りよく、事を進めていった。こういう場合、入院を拒否できる選択権が自分にあるかどうかも判然としないくらい意識は朦朧としていた。

 

いや、あるだろう。僕がここで入院しなかったとしても、パンデミックが起こるわけででもないし、アウトブレイクを誘発するわけでもない。ただただ扁桃腺が腫れてるだけなのだ。

 

 「いや、今から入院って言われてもさすがに困るんですけど…」

 

「でも医者としてはこの喉と痰を見て、そのまま帰すってわけにはいかないんだよね。診た責任があるし、診た以上何かあったら大変だからさ」

 

確かにつらいが、ほんとうに死を示唆されるほどなのだろうか?たかが痰、されど痰、この痰があらゆる痰の中でどれほどクリティカルな座標にいるかはわからないけれど、さりとてそんなことを言い始めたら、痰を抱えた全ての人類が死を示唆されることになるまいか。

 

しかしながら、女医が進める段取りに抗うほどの気力はあらず、とりあえず流れに身を任せることにした。この時点で1時間半経過。繰り返すが、僕が望んでいるのはこの扁桃腺の痛みを少しでも緩和することその一点のみ、なのだ。僕が抱えている痰という爆弾の行方でもなく、その爆弾を解除できる大病院を探しているわけでもない。

 

待てども待てども動きはなく、膠着状態が続いている。扁桃腺の痛みは続いたままだが、意識の輪郭は取り戻しつつあった。僕は看護師さんを呼んで精一杯の力を振り絞って「ちょっとやっぱり今から入院っていうのは困るんで、普段通っている行きつけの耳鼻科に行って診察を受けてみたいと思います。そこでセカンドオピニオンをとって判断させください」と自分の意思を告げた。看護師は「やれやれ」といった表情で、僕の意思を先生に伝えにいった。やれやれ、「やれやれ」は俺の方だ。セカンドオピニオンなんて初めて口にしたわ。オピニオンもなにも「痰」だぞ。


再び診察室に呼ばれた。今度はまた違う医師が座っている。

 

「院長の〇〇です」と医師は名乗った。心の底からの「やれやれ」だと思った。このデッドレースは一体どこまで続くんだ?もはや逆説的に扁桃腺なんてどうでもよくなってきた。


改めて院長先生からの口からも「死」というワードが放たれた。「痰が絡んで呼吸困難で窒息死」というのはそれほどメジャーな死なのだろうか。僕がニュースを見ていないだけだろうか。それにしても同じ窒息死でも餅に偏重しすぎてはないだろうか?このまま僕がそんなような死に方をしたら、それはどのように報道されるのだろう?あるいはまったく報道されぬまま、よくある死として処理されるのだろうか。

 

結局、最後の力を振り絞って入院は拒否した。

 

「そしたらこれからいく耳鼻科の先生にこの写真を見せなさい。多分、その先生も同じ判断を下すと思うわ」と語気強めに吐き捨てられた。怒らなくてもいいじゃないか。

 


その写真には僕の喉につまる僕の痰が映されていた。溜息をついても喉が痛む。