自分の知らない誰かが「美味しい」と言った、そのうどんは本当に美味しいのだろうか。
せっかくうどん県の香川に行くわけだし、しかも日帰りで時間も限られているのだから、とにかく美味しいうどんを食べたい、それさえコミットできればあとはなんでもいいと思っていたわけだけど、空港の近くにたまたまあったお店の、たまたまのうどんを美味しく食べ終えた今、元々のプランはほとんど無意味なものとなった。予定は白紙にしてあとは場面で決めよう、と。その一杯が今、その瞬間、最高に美味しかったのであれば、「それ以上のクオリティを求めること」に今日このあとの時間を費やす必要は多分ない。
そもそも、ネット上で情報を収集し、それに基づいて自分の行動を規定し、時間を消費することは適切だろうか。自分は有名店のオーナーでもシェフでもなければ、ましてやうどんに対する造詣はまるでないわけだが、少なくとも、ある程度、飲食を生業としてきた人間ではある。曲がりなりにもそうであるのにも関わらず、香川でうどんを食べるにあたり、同調と群集心理によって形成された点数やレビューを判断材料として、行先やルートを決めるのはなんか合理的でないように思える。点数やレビューがどうあれ、讃岐うどんに詳しい友人や知人におススメのお店を聞いた方がよっぽど理に適っているし、生きた情報と言える。
そんなことを思っていると一軒目のすぐ近くに別のお店を見つけた。もう少しインターバルを置こうかとも思ったけれど、食欲は完全に点火している。店の前まで行って決めようかと近づいてみると、看板に「牡丹うどん」の文字を見つけた。猪肉うどん。入店、即決。正解すぎた。
さすがにお腹いっぱいになったので、しばらくぶらぶら歩いてみることにした。なんでもない道をなんでもなく歩き、
農協に入って地元の珍しい食材や野菜を物色したり(リュックぐらい持っていけばよかった)、
いい感じの境内でいい感じにぼーっとしたりした。
結局3時間ほど歩き続け、正午近くに市内に向かうバスに乗った。市内でレンタサイクルを借り、適当にぐるぐるまわった。自転車に乗り、うどんを食べ、日本庭園を散策した。
漫画喫茶で1時間ほど昼寝もした。日帰りなのにも関わらず、昼寝をするなんてとも思ったけれど、この1時間がまた極上だった。友人から「うどんもいいけど、海鮮もいいよ」と聞いていたので、最後は居酒屋さんで穴子の刺身を肴にビールで〆た。
18時頃、高松市内を出て、19時半のフライトに乗り、20時40分には羽田。これだけ遊んだにも関わらず、寝るまでまだまだ時間がある。まだまだ休日を続けることができる。この事実は僕にとって、ちょっとびっくりなことであった。今後、休日はこんなふうに過ごせばいいし、旅行はこんなふうに行けばいいと思った。今日は渋谷に行って、下北に寄って、吉祥寺で飲んでぐるっとまわって帰ってこよう、的な感覚で、ふらっと飛行機に乗って、普段と違う風景に飛び込むのは最高の気分転換になるだろう。
といった具合で、「考えてみれば…」とか「いやいや、ちょっと待てよ…」という気付きが多い一日となった。それは全て「日帰りでもよくない?」と自身に提案できたところが始まっていて、逆に言えば「旅行行くなら少なくとも1泊2泊」というお決まりのパターンを疑ったことに由来する。よく固定観念や既成概念といったありきたりな言葉で代用されるものだけど、そんな仰々しいものではなく、単純な「何となくの思い込み」でしかない。けれど、だからこそ危うい。おそらく自分が思っている以上にこの「何となく」は気付かぬうちに膨れ上がっていて、知らぬうちに増殖している。点数やレビューで評価されているうどんは確かに美味しいかもしれない、けれど、それは点数が低いお店やレビューが少ないうどんが美味しくない、とイコールにはならない。洗練されたマーケティングを施され、ブランディングを築いたAが良質であることは、B~ZがAより劣っていることを示さないし、証明されえない。Aがどれだけブランディングされていようとも「B<A」にはならず、AはAであって、BはBだ。
美味しい讃岐うどんをたっぷり堪能したあと残ったのは満足感と、「情報」というものへの疑問符だった。すっかりしっかり「情報」の社会なのだけど、そもそもの話、情報とは何なのだろうか。