Journey×Journeyと山本ジャーニーの冒険-独立・開業と「旅食」の航海日誌-

秋葉原の多国籍・無国籍のダイニングバー「Journey×Journey」。独立開業までの過程とオープン後の日々を綴る、山本ジャーニーの営業日報。

「商売不繁盛論」と「冒険」④-小説『Journey×Journey』後編-

小説『Journey×Journey』の主人公は「僕」ではない。自分の世界一周に基づく紀行文を書いたところでたかが知れてるし、凡庸で、興がない。それを実現できるかはさておき、書くのであれば「凡庸ではなく、興のあるもの」を目指したい。



この物語では5人の旅人を主人公にしている。タイのバンコクボリビアのアマゾン、オーストラリアの「12人の使徒」、エチオピアのアワサ湖、インドのプリ-を舞台に、それぞれの旅人のそれぞれの旅を描く群像劇の形式を採用した。旅は人間を生々しく深く抉る。旅人が孕むそうした生々しさを小説という表現を通してフォーカスしていきたいと考えている。だから、テーマは「旅そのもの」よりも「旅人」になるのかもしれない。「旅は素晴らしい」、「旅に出よう」という文脈は世の中に十分に溢れている(逆も然りだけども)。僕も旅に魅了された一人として、心からそう思っているが、そうした想いを小説にのせる意義はさしてない。


「旅人」と言っても、その意味は広い。バックパックを背負ってる者だけを旅人と指すわけではない。バックパッカーにピントを合わせると、バックパッカーに向けた文章になってしまうので、『Journey×Journey』においては「旅人」を広義に捉え、物語に側面と重層感を持たせるように努めている。


第一章の主人公は大学生の「五十嵐信夫」。彼自身、海外には全く興味がないが、恋人の希望でタイに短期旅行に行く予定を立てていた。ところが出発直前になって、恋人に振られる。信夫は半ば自暴自棄にタイに渡航。食堂で知り合ったバックパッカーに誘われ、要領を得ないままバンコクのゴーゴーバーへ。隣に着いた女の子は信夫の人生において、未だかつてない美女で、錯綜するネオンと芯まで響く重低音の中で、未だかつてないキスを経験する。ところが、彼女はニューハーフだった(話の筋としては取り立てて物珍しさはない)。


下記、小説『Journey×Journey』より引用。

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実は男だと知って、彼だか彼女だかを突き放すことが成年男子として健全な反応なのだろうか?騙されたと憤慨し、店を飛び出るのは許される行為なのか?もしくは、「何事も経験」というありがちなロジックを持ち出して、強引に対処すればいいのだろうか。さりとて、若気の至りとかこつけて、先方に対する敬意もないがしろに面白がるのはいかがなものだろうか。女であろうが、男であろうが、この人が現実に僕にもたらした恍惚は撤回のしようのない、また記憶からデリートすることもできない、揺るぎない確かな感触だった。あとで男と知ったからって、その恍惚を無碍に反故にするのっていうのはさ、何だかとても偏狭な話のように思えたし、何より彼女(でいいや)に対してフェアじゃないことのような気がしたんだ。

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第2章では信夫を振った恋人がボリビアのアマゾンに行くストーリーに転回する。


5人の旅人のそれぞれの旅は独立したものでありながら、それぞれに結びついている。実際、僕自身の世界一周がそうであったように、自分の旅は常に他の誰かの旅と交差している。そのすれ違いざまのスクランブルだったり、交差後のパラレルが旅を俯瞰した際に湧きだす面白味だと僕は感じている。そうした人間模様と人生賛歌の切れっぱしを描きたい。小説『Journey×Joureny』の「×」にはそのような意味を込めている。


もし、これが形になれば、他に類を見ない旅小説になるのではないかと思っている。旅をオムニバス形式で取り扱った作品を僕は知らないし、「旅人自身」にフォーカスにした小説もあまり見かけない。


とは言え、探せばあるかもしれない。ここまででは「凡庸ではなく、興のあるもの」にはならないかもしれない。


僕が『Journey×Journey』にロマンを感じるのは、ここで描かれる5人の旅人とは別にいる、まだ見ぬ「6人目の旅人の6つ目の冒険」だ。6人目の冒険は他の旅人の話を聞いた上で、僕がストーリーを起こしてもいいし、僕ではない誰かが続きとして6つ目の冒険を書くというのも面白いんじゃないかと思っている。


そういうことができればロマンチックだなあ、と僕は妄想する。







クールな現実とクールに向き合うのも僕の仕事だが、



ロマンチックな妄想とロマンチックに向き合うのも僕の仕事だろう。