ところで、「クレイジー」(crazy)とはどういう意味か?
「異常、狂気、気が狂った」というのが一般的な解釈であるが、それが転じて「すごい」「やばい」などポジティブな意味で使われることも多い。『クレイジージャーニー』という番組の「クレイジー」にはきっと、その両端の意味が込められているし、その両端の振れ幅こそが番組の魅力なのだと思う。
では、狂気の対義語は何か?日本語で言えば「正気」となるが、正気を英訳しようとなると、ピンと来る言葉がない。調べてみると、「Sanity」とある。
知らなかった。サニティー?
自分の理解を超えるものに対しては「クレイジー」という言葉で括ることができるけども、逆に関しては、つまり自分の理解におさまるものについてはそそも言及しないし、形容する必要がない。だからこそ「クレイジー」という言葉は人を惹きつけるし、誰もが知る言葉だけども、反対に「サニティー」という言葉はほぼ誰も知らず(おそらく)、そして誰も意識していない。
だから、「クレイジーであるかどうか」というのは他者のイメージや感覚によって形成されるものだと思うし、自分が自分のことを「ああ、俺、クレイジーだな」って思ったり、知覚することはまあ、多分ない(中にはそういう人もいるかもしれないけど)。
と考えれば、クレイジーとサニティーの間に境界線はないし、今の世の中はまさに狂気と正気が入り乱れる百花繚乱とも言える。むしろ、自分にとっての「正気」や「普通」を惑わされることなく無心で、飲み込まれることなくソリッドに、淡々と積み重ねることが「正しい狂気」を育むんじゃないかと思う。誰かの「正気」は他の誰かにとっての「狂気」。そんなメビウスの輪のような成り立ちをしている、と自分は感じている。
旅人はよく「旅をしている」と言う。実際にそうなのだけど、それは同時に「旅をさせてもらっている」ことでもある。そこにもまさにメビウスの輪があって、そうしたインタラクティブな観点や感覚を旅人として、あるいは料理人として、常に持っていたいと(できるだけ)心掛けている(まだまだ足りないけども)。
今回の『クレイジージャーニー』において、僕はブータンを訪れ、ブータンの唐辛子とともにブータンの激辛料理を堪能させてもらった。そして、その経験をベースにスタジオで僕なりのブータンと僕なりの「弱激辛」を表現し、(多分)楽しんでいただけた(おそらく)。
「激辛は世界共通のエンターテインメント」だと掲げている自分にとっては、そして、「世界共通」と謳うからには、できるだけインタラクティブで在るべきだと考えている。一方向的ではなく双方向的であること、受動態だけではなく能動態でもあり、逆に能動的でありながら同時に受動的であること。
放送には出ていないけれど、僕がブータンで、ブータンの方に辛い料理をお出ししたり、自分が持参した「弱激辛ジャム」を楽しんでもらうという場面もあった。そして、その場は自分が思った以上に盛り上がったし、確かな荒ぶりがあった。いつか未公開映像としてその様子も放送されたらいいなとは思うけども、放送されなかったとしても、あの体験ができたのは僕にとってとても有意義だったし、可能性を感じることができた。自分はあの時、まさに「激辛は世界共通のエンターテインメント」の真ん中にいた。
自分が荒ぶって、白やむだけでなく、いつか、
例えば海外で弱激辛のお店を出したり、例えば弱激辛ジャムを世界に売り込んだりして、「弱激辛」の概念を世界に伝え、
自分が世界を荒ぶらせ、自分が世界を白やますことができたら、
それはめっちゃ面白いだろうなあ、と思う。
今回の『クレイジージャーニー』を通して、改めて、正気と狂気のメビウスの輪の中で、思う存分荒ぶっていこうと思った。勿論、これからも旅は続いていく。
まだ白やんでる場合じゃない。