「一緒に行かないか?」
と、おじいちゃんは言った。
ここまでの過程でおばあちゃんは特に動じることなく、ただ静かにお茶を啜り続けていた。角度的に表情こそ読み取れなかったが、その堂々たる背中にただならぬものを感じていた。さてはおばあちゃん、やり手の女子だな、散々モテてきたな、と。一方、おじいちゃんはもうすでに見てられない。もう完全におばあちゃんに恋をしてしまってる。自分もこんな感じだったんだろうなと戦慄する。見てられない…。
答えがOKであれ、NGであれ、おじいちゃんのその直球をおばあちゃんがどう上手に返すか、僕は固唾を飲みながら、お茶を飲んだ。まだ3皿目なのにお茶を啜ってばかりだ。もはやタッチパネルでネタを選んでいる場合ではない。まさに今、僕の隣でどでかいネタが繰り広げられている。
おばあちゃんは湯呑を置き、カウンターに残されていた握りにここに来て手を付けた。咀嚼とともに沈黙が流れる。そして、
「こ、これ、お、お、おいしいね…」と苦しそうに言った。
完全にテンパっている。おじいちゃんのマグニチュードを遥かに凌駕する規模で激しく動揺している。
ちなみにおばあちゃんはその時食べた握りは「下足」(ゲソ)だった。ここで本日のおススメである金目鯛や鉄板の中トロであればともかく、下足に「旅行に誘う」というヘビー級の会話をぶった切って、話題を面舵一杯するほどの力はない(下足は僕も好きではあるが…)。しかも、おばあちゃんがどう「上手」に切り返すかを期待していた自分としては「下足」が個人的なメタファーとなって押し寄せてきた。じわじわとじわる。今、僕の隣でとんでもない邂逅が展開している。
おばあちゃんのその想像以上の動揺はおじいちゃんにとっても予想外だったようで、事態はさらに混迷した。
「あ、か、か、金は俺が全部払うからさ、だからそこはし、し、心配しなくていいからさ…」。
そこじゃねー、多分、そこじゃねー。そこだとしても今言わねー。
「金は天下のまわりものって言ってね、使わないと増えないから…」
だからそこじゃねー、そして多分この件に関してはまわしても増えねー。
「1泊だとあまりゆっくりできないからさ、2泊くらいしてさ…」
そこでもねー、絶対、そこでもねー。2泊ならOK、ってならねー。
おばあちゃんの方は「いや、それはちょっと…」という空気は醸すものの、かと言って、明確な否定もしない。波を立てずになんとなく交わしたいのであれば今は宝刀「コロナ」があるではないかと思うが、それを抜こうともしない。
「大丈夫、ちゃんと2か月前くらいに予約するからさー」
おじいちゃん、全然大丈夫じゃないよ。一回の表に7点取られてるのにその上で暴投してるようなもんだよ、それ。
「ほら、1か月前だと予約埋まっちゃってるかもしれないし、キャンセルとかになるとまためんどうくさいからさ…」
おじいちゃん…、空室状況も、キャンセルポリシーも今は気にしなくていいんだよ…。もう9点くらい取られてるのに気付いて…。
よほど白タオルの代わりにおしぼりをリングに投げ入れようと考えたが、結局その場はおばあちゃんが最後まで封じていた(封じてくれていた)「コロナが落ち着いたら…」という大砲を放ち、幕を下ろした。
この物語の結論は、
①コロナ、はやく落ち着いてほしい。
(おばあちゃんも多分まんざらではない)
②うずうずしているのは若者だけではない。
(おじいちゃんはコロナが落ち着くまでの間にちょっと落ち着こう)
③酒類の提供禁止は解除してほしい。
(今日はおばあちゃんの隣で飲みたかった。おじいちゃんはお茶でよかったね)
④世の中の「お友達と言えばお友達」という関係は無限の意味と蓋然性を孕み、それは中学2年生であれ、70歳の男女であれ同様で、時に最もプラトニックで、時に最もエモくエロく、往々にして切ない(本当に切ない)。
⑤されど恋はつづく。
(どこまでも)