「正直、私、生のお魚って苦手なんですよね…。苦手というか、今までほとんど食べてこなかったというか…」
仲良くさせていただいてる近所の海鮮居酒屋で、極上のお刺身を食べながら、僕は心の中の動揺と落胆を悟られぬよう、極力、平静を装った。
「どうしても生臭く感じちゃうんですよね。と言うか、クセがあるものがダメなんです、きっと。あ、でも酢飯は好きです。ちっちゃい頃、回転寿司屋さんでネタだけ外して、下の酢飯だけ食べてました」
「なるほど…。なるほどね…。じゃあさ、好きな食べ物は何?」
動揺も落胆も隠し通せていないだろう。多分、顔に出てしまっている。それも致し方あるまい、寿司屋でネタを外してシャリだけ食べるという愚行にどうして平静でいられようか。ああ、俺は今、君にドン引いてる。けれど、そんな不安をよそに、あかねちゃんはどこまでも屈託なく、どこまでも真っすぐに、
「ハンバーグとポテトです」ときっぱりと答えた。
「そっか…。そっかー…」
そうだよねー、美味しいよね、ハンバーグとポテト。だよねー。そだねー。
「じゃあ普段、友達とエスニックとかそういうとこには行ったりしないってこと?」
「行ったことないですね…。あ、でも、パスタとピザは好きです」
だよねー。
「ちなみにパクチーは?」
「食べたことないです。多分、私、クセがあるもの全般、無理だと思います」
そだねー。
サビを見失ったメロディーが抑揚なく無気力にリピートするかのように、僕は何らの手応えも突破口も見い出せないまま、四苦八苦した。たとえ相手がどうであれ、お酒を飲みながら一定の時間を共有していれば、どこかしらに「ポイント」を掴めるものだと自負していたが、あかねちゃんとの飲みにおいて、それは煙のごとく僕をすり抜けていった。
J×Jにジョインしてくれることが決まる前に一度、面接を兼ねて一緒にお酒を飲んだ。この日は二度目のお酒で、すでに採用は決めていた。あかねちゃんは多国籍料理店という「クセそのもの」の中で働くことができるだろうか。いや、もはやそれは決定事項なのだ。すでに幕は切って落とされている。あかねちゃんはクセそのものと戦わねばならないし、僕は彼女の偏食というクセと戦わなければならない。双方に、血と汗は流れる。
今後、好き嫌いは最初の面接の時に聞くようにしようと戒めて、話題を変えることにした。まだ社会人2年目なので「仕事観」と言えば大袈裟だけど、この一年で「仕事」のどういう部分に楽しさや面白味を感じたかをちょっと聞いてみよう。業態は違えど、同じ接客業として通ずるものがあるだろうし、今後どう進めていくかのフックになればいい。
「あかねちゃんは1年、アパレルで働いてみてどうだった?」
「どうだったと言われましても、特に何も…」
ハンバーグとポテトです、と言ったキレはどこにもなかった。けれど、確かに俺の質問が悪い。質問はもうちょっと具体的にすべきだ。
「そしたら、1年働いてみて最も嬉しかったことは?」
「特にないですかねえ…。まあ、お客さんが買ってくれたら嬉しいですけど…」
「じゃ、じゃあ、この1年の中で最も印象的だった1日は?」
「うーん…、印象的だったことも特にないですね…」
この返答については、もはや苦笑いすらできなかった。
帰り際、「しんさん、ここのお魚は美味しいと思いました。私、初めてこんなにたくさんお魚食べました。ここ、すごいですね」とあかねちゃんは言った。やや上からかい、と思いながらも、同時にどうにか救いとなる一言となった。
この日からあかねちゃんの冒険が始まった。
そして、2年経ち、昨日、あかねの冒険が終わった。
「何食べたい?」と聞くと、きまって「タイ料理」と答える。「どこ行きたい?」と聞くと、「千寿司」(近くのお寿司屋さん)と言う。苦手だったパクチーも辛いものも今では好んで食べる。性格に多少の難はあるけれど、性格に難のない25歳女子なんて皆無に等しいし、むしろ多少の難はある意味健全である証拠だ。そして、そもそも僕の性格にも難はある。勿論、ある。
僕にどれだけ怒られても次の日、必ず出勤した。仕事を理解できる仲間に愚痴を言いたいこともたくさんあったろうに、残念ながら愚痴を言える相手はともかく、愚痴を心から理解できる相手は僕しかいなかった(地獄だ)。そうして500日が過ぎ、仲間ができたころには茜は先輩になっていた。そのようにして残りの250日を過ごし、750日間、無遅刻・無欠席を続けた。
「ここで私が突然、休んだらお店もシンさんもどうなっちゃうかなー」と考えた日は少なからずあったと茜は振り返る。思うに、人間はここで二手に分かれる。そう思ったとしてもそうしない人間と、そうしちゃう人間だ。茜は前者であった。自分が苦手とするものやストレスを感じるものは徹底的に牽制し、自分の好きなものだけをおもむくままに取り入れ、みょうがとしょうがの違いもわからぬまま、「maybe」や「same」の意味も定かでないまま、極端に狭い了見の中で、とにもかくにも走りきった。「無遅刻・無欠席なんて社会人であれば当たり前のことじゃないか」と思う人もいるかもしれない。けれど、僕はそうは思わない。飲食業も、J×Jという店も、僕も、甘くない。とことん甘いところもあるけれど、とことん甘くない部分もある。
でもだからこそ、見えてくる物事があり、広がる風景があると信じている。何ら険しさのない山道の先に胸が高鳴る景色は用意されていない。と、そう思う。これ以上言うとブラック飲食店の気配が漂ってしまいそうなのでやめるけど、本当にそう思う。
茜は数か月後に世界一周の旅に出る。
多分、彼女らしい世界一周を彼女らしく旅すると思うのだけど、きっと楽しいことばかりではない。苦手な食べ物だってたくさんあるだろうし、苦手な人にも会うだろう、愛想を尽かすこともあれば、愛想を尽かされることもあるだろうし、嫌な気分になることも少なからずきっとある。勿論、逆のこともたくさんあるはずで、それ全部ひっくるめて旅であり、冒険だと僕はやはり思う。そう考えれば、J×Jでの日々もある意味で旅と似たようなものだと感じなくもない(どのような仕事もそうだと思うけど、より人と人がダイレクトである点において、飲食店は旅先に似た生々しさがある)。とにもかくにも、何はともあれ、走りきってほしいなと切実に願う。その先には汗をかいた分だけの景色が広がっているだろう、きっと。
J×Jの立ち上げを共にした初代のスタッフ(K)は不本意な形で(僕にとっても、おそらく彼にとっても)、J×Jを辞めてしまった。本来であれば丁重に扱わなければならない茜だったが、僕はそれをできなかったし、しなかった。むしろ、Kよりもさらに遠慮なく、容赦なく、本気で一緒に仕事をさせてもらったことに僕は心から感謝してるし、ゆえ、僕の中でこの先もずっと生き続ける経験になるだろう。
いささか気の早い話だけれども、一周から帰国後、茜がどうするかは僕にはわからない。でも、誰かが茜を面接することがあれば、その面接官に是非、聞いてみてほしい。
「じゃ、じゃあ、その秋葉原での2年間の中で最も印象的だった1日は?」と。