「ヤマモトさん…、カシスソーダって何でしたっけ…?」
と、スタッフはまわりのゲストに聞こえないようにそっと僕に聞いた。レセプション初日、ゲストと注文と料理がごった返している真っ最中、彼はカシスソーダの作り方がわからないと言う。
「カシスとソーダだ」と僕は言った。
いいか、よく聞け、カシスソーダはカシスとソーダだ、と。
カシスソーダの成り立ちがわからないスタッフがどうのではなく、そうしたスタッフをカバーするだけのキャパシティが僕にないことが問題だった。
商売不繁盛論の前提その3、自分と飲食未経験のスタッフ1人の2人体制。
初めは俺が気合いで何とかする、安心しろ、任せておけ、
なんていうような武闘派的な気骨はさらさらなかった。
むしろ、初めだからこそ慎重になるべきというのが基本的な姿勢だったし、契約からオープンまですでに全力疾走中、そもそも張ちきれんばかりの気合いを以って、ここまできている(予定通りのオープンにこぎつけている)。これ以上のアクセルはリスキーだと自分自身、承知していた。
といった案配だ。いま使っておるのがその10倍界王拳なのだ。
だからこそ、事前告知は皆無に等しかった。オープニングセールや呼び込みは「皆無に等しい」ではなく、文字通りの皆無。
勿論、準備中の段階でオープン後、どれだけの一般客にご来店いただけるかは未知数だった。ただ僕の想定では予約客ではなく飛び込み客が3組来たらアウト(営業を満足にまわせない)だろうなと見当をつけていた。オープン当初、僕も店もそれくらい薄氷の上に立っていた。
であれば、リスクヘッジとして最初はメニューを絞り込むという案も検討した。が、否。多国籍料理を謳うからには取り扱うメニューは南米やアフリカ料理を含め、広域に網羅したい。では、クイックで出せるメニューを充実させるか。否、差別化していかなければならないのにフライドポテトを出してもしょうがない。ならば、完成手前まで仕込みを追い込むか。否、実際の来客と出数がどれだけになるか全くわからない状況でそれはできない。
否、否、そして、否。
繰り返される「否」の先にあったのは「籠城」という極めて消極的な結論だった。勝負はせず、しばらくは大人しくして、様子を見ようという敬遠策を採用した。
仮にオープン時に至らない点があったとしても(それはどうしたってあるし、なくせるものではないのだけど)、人通りのいい立地であればトライ&エラーの中で早期のリカバリーが望める。であれば、骨を切らして肉を断つという戦略も一手だろう。けれども自店の立地は人目につかない裏手にあり、店の前を往来する人数は限られているし、顔ぶれも基本的に変わらない。立地の悪い店というのはある意味ではすごく目立つのだ。悪評が立てばその浸食は加速度的に広がり、あっというまに脅威となるだろう。下手をしたら次のラウンドに持ち込めないまま、1ラウンドKOということにもなりかねない。
肉を切らせれば、たちまち骨も断たれるという構図。あくまで僕の勝手なイメージだけど、一理あると思う。一事が万事で、一事が命取りになる。
一度しかないオープニングの時期に逸る気持ちを抑えて静観するのには勇気がいる。自らブレーキをかけることで近隣に第一印象を残すチャンスを逃すことになるし、機会損失も避けられない。スタートダッシュで一気に認知を広めたいという思いもあるし、最初のうちに稼いで初期費用を回収したいというのもごく普通の心理だろう。
けれど、道のりは長い。オープニングからトップスピードを出すと息切れは急いだ分だけ早めに訪れる。まずはならしながら、コンディションを整え、アクセル全開の機を伺うというのも一つのアプローチだと思う。
飲食未経験のスタッフ1人との2人体制となればなおさらだ。おまけに当該スタッフは東京に越してきたばかり。新しい環境と生活リズムの変化だけでも相応の負荷となる。ここは焦らずに、まずはアクセルを思い切り踏めるよう、グランド整備に努める方がベターに思えた。
カシスソーダはカシスとソーダであり、カシスオレンジはカシスとオレンジであるということを閑古鳥とともに囀ってるくらいが僕にはちょうどよかった。