3月に入り、Kが再びお店を休むようになってから、シフトフォローの手配に追われた。まるちゃんは2月末にクランクアップ。これ以上のフォローはお願いできない。僕は速やかに、何が何でも、誰かの協力を仰がなくてはならなかった。ディナーはいざとなれば独りでもまわせるようにある程度コントロールすることができるが、ランチに関しては1人でこなすのは極めて難しい。強引に独りきりの肉弾戦に持ち込んだとしても、あっというまに愛想尽かされて、あっというまにゲストは離れていくだろう。
この時点で、Kの先行きがどうなるかわからなかった以上、おおっぴろげにもできない。内々で、コンパクトに、対応を急いだ。幸いなことにランチのフォローはすぐに決まった。快く引き受けていただき、とりあえずの体制がすぐに整ったことに大いに救われた。
ディナーに関しては、埋まりきらず、独りで営業する日も少なくなかった。けれど、これも運が良かったのか、ご予約をたくさんいただいてる日はたまたまフォローが見つかった。どうにもならないクリティカルな状況は何とか回避することができた。
とは言え、3月は壮絶だった。「1人抜ける」というのはかなりのインパクトで、改めて個人店の厳しさを思い知らされた。
超絶に壮絶だった3月に関してはまたいつか別の機会に、別の投稿で書きたいと思う。この場では何はともあれ、お手伝いいただいた5人の恩人に改めて、心から御礼申し上げたい。
隙間を縫って行われていたKとのやりとりは、「長期休養」の段階から次第に「退職」の方向へと決定的、確定的となっていった。退職は既定路線だとして、いつ、どのように退くかを話し、せめて一周年には出れないかと模索したけれど、最終的にはそれも困難な状況となり、3月末を以って退職、という結論に至った。良くしていただいた皆様に対して、何も言わずにというのは悔しいし、遺憾であり、そして、申し訳ない。
自分にとって、Kは『スラムダンク』の桜木君のような立ち位置にいた。
桜木君のいないコートは正直、寂しい。
けれどここに立てなくなってから、もう一ヶ月以上経過している。
すでにお店には新しい空気が漂い、今週末の一周年ではピンチヒッターではなく、GW明けから社員として働いてくれる新しいスタッフを紹介する予定になっている。
Kが貧血で倒れた日、僕の母は病院まで歩いた。
「今、病院に着いたんだけど、K君、寝てるんだって。看護師さんが起こさない方がいいって言うから、そのまま帰るね」
「チョコレートだけ置いてけば?」
「そうね、そうしよっか。看護師さんに頼んでみる」と母は電話口で言った。
眠りから覚めたKは夕方、店に戻り、僕に言った。
「起きたら、チョコが置いてあったんですけど…」
今回のリタイアに思うところは多々ある。同時に、その全ては憶測の域を出ない。恥ずかしながら、僕はKとKの体調不良に挫折し、Kの「こころ」の所在と、その行先はわからないままだ。恥ずかしながら。結局、この件に関して、僕は活路を見いだせなかったわけだが、ベストを尽くすことにベストを尽くした自負はある。そして、「活路」を求めることを投げ打ってはならない。『タイへの冒険』のテーマはまさしく「活路」であり、僕からの『蛍の光』だ。
「いずれにせよ」、と僕は思う。
実際のところ、彼がどうであれ、なんであれ、
Kはけっこう愛されてたし、それはけっこう事実だろう。