契約から約一週間後の3月9日は加藤が上京する日となっていた。彼の上京にあたり、まず問題となるのは彼の住まいをどうするか、ということだった。加藤がどこに住もうが、それは彼の自由であって僕がとやかく言うことではない。けれど、彼は東京にまったく土地勘はないし、相場もわからない。その上、それとなく聞いていた財政状況から考えるに、店舗の近くのシェアハウスに住むことが妥当ではないかと思っていた。シェアハウスというある意味、都会ならではの生活空間で暮らすことに彼は何と言うのだろうか。
「そんなの全然気にしないでください。オレ、どんな穴倉でも平気で寝れますから」
という彼の言葉に頼もしさを感じた。さすが“信頼できるタフ”、と。
「じゃあ、とりあえず俺が適当にいくつか目星つけて、その中から選んでもらう感じでいい?」
「お手数かけます、よろしくお願いします」
そうした合意の上、良さそうな物件をいくつかピックアップし、条件や画像を送付し、どこに住むかを双方で決めた。重要視したのは何と言っても「店からの距離」(どうせなら近ければ近いほどいい)。ちゃんとした「窓」があることもポイントだった(狭い上に窓もないとなると、余計に閉塞感を感じてしまうと危惧した)。
屋上があることもこの物件を薦める決め手となった。たとえ部屋が狭くても、たとえ仕事で思いつめることがあっても、開放的な屋上があれば幾分、気も紛れるだろう、と。そんな配慮とは裏腹に、当初、本人は懐疑的だった。「ヤマモトさん、やたら屋上、屋上って言いますけど、屋上ってそんなに重要ですかね…?」、と。「いつかわかると思うよ」と僕は言った。
そして、3月9日。11時に管理会社から鍵を渡される約束だったので、その15分前に秋葉原で落ち合うことにした。朝早くに仙台を発たせてしまうことに申し訳ない気持ちもあったけれど、先方の都合もあり、その時間しかなかった。まあ俺は10時まで寝れるからいいや、と思って、ぐっすり眠っていた。
9時過ぎ、Kから着信があった。その瞬間、新幹線に乗り遅れたんだと確信した。「初日から遅刻かよ」と思って呆れながら電話に出ると「すいません、勢い余ってもう着いちゃいました」と加藤は言った。
「え?どこに?」
「秋葉原に」
「…。いや、迷惑なんだけど…」
「興奮して寝れなかったんですよ」
「そうなんだ…、じゃあ10時45分に」
と言って、電話を切った。
11時、管理会社から鍵を渡され、諸々の説明を受けたのち、部屋に荷物を置いた。
加藤は想像以上の狭さに戸惑っていた。俺はその様子を見ながら、苦笑いを浮かべる。
「ちょっと、何笑ってんすか?」
「いや、別に…。まあ、いいから座れよ」
と言って、撮ったのがこの一枚。
そして、近くの定食屋さんで昼飯を食べて、
店に戻り、今後の流れの共有を済ませると、「のっけからあれなんですけど、ちょっと寝ていいですか…?昨日の夜全然寝れなくて…」というまるで緊張感のない申し出を受け入れ、彼がイスの上で器用に寝息を立てる中、仕事をした。
日が暮れると、加藤を起こし、近隣のお店への挨拶まわりを兼ねた晩飯。二人ともけっこう酔っ払った。
別れ際、「あそこに戻るのか…」と言って、彼は新居に戻っていった。
あれから8か月、経った。「どんな穴倉でも平気で寝れますから」と言った彼の面影はどこにもない。部屋の狭さに対して、ほぼ毎日のようにぶつぶつ文句を言っている。
今日はお休みで店内で独り、このブログを書いている。そんな中、15分程前に加藤が忘れ物を取りに来た。
「ヤマモトさん、俺、さっき“格好いい”って言葉の意味を辞書で調べたんですよ。そしたら、①姿・形がよい、②人の行動についていかにも潔いさま、って書いてありました。で、今度は“潔い”について調べてみたんですね。思いきりがよい、未練がましくない、さっぱりとして小気味いいっ、て書いてありました!!」
「へえ」
「なるほどっ、って思って!!」
「ふうん、部屋の中でそんなの調べてたの?」
「いえ、屋上でぼおっとしながら」
「ふうん」と僕は言う。