橘さんが2月いっぱいでお店を閉めることを決断したのが1月上旬。契約解除の申し出は管理会社に速やかに受理され、この物件の担当である池尻さんは早速、各媒体に物件情報を公開した。その募集に対して手を挙げた人間が管理会社と面接する。まずはそこでふるいにかけられ、面接を通過した者が今度は現オーナーである橘さんと造作譲渡(今のお店の内装設備をいくらで買うか)に関する交渉に入る。双方の合意後、再び管理会社との最終確認、という運びとなる。
レースが始まる前(1月上旬のテナント募集開始時点)から僕は管理会社とも現オーナーとも面識があり、その点において他のレーサーと比べて有利と言えなくもなかった。けれど、そんなアドバンテージは「利潤の追求」というサーキットの中では露ほどにもならないということも重々承知していた。
「今回、上の指示で家賃は強気に設定しています」と池尻さんは電話口で僕に言った。募集要項に提示している金額は僕の想定よりも大幅に上回っていた。
「ご存じのとおり、秋葉原のブランド力は年々上がってきています。たとえ、駅から離れた裏通りでも秋葉原にお店をかまえたいっていう人はたくさんいる。それを見越してのこの金額ですが、私個人としてはどうかなって思ってます。おそらく応募が殺到するということはないのではないか、と」
池尻さんのその見解は自分にとってポジティブでもあり、ネガティブでもあった。確かに、あの立地と坪数でそれだけの家賃を払う応募者は多くないだろう。仮に交渉の余地なく、そのままの金額が適用されるのであれば僕だってこのレースから降りる。しかし、会社の見立てもけして見当はずれではない。秋葉原で物件を借りれるのであれば、それぐらいの金額、平気で出す法人も少なくないはずだ。もし、そんな資本が現れれば僕なんてひとたまりもない。
「いずれにせよ、1,2週間の間、募集をかけて様子を見てみます。また何か動きがあれば連絡します」
と言って、池尻さんは電話を切った。
それからしばらくの間、僕は池尻さんからの連絡をじっと待った。本来であれば、並行して他の物件をあたったり、最悪の場合に備えて次の働き口の見当をつけておく(その時勤務していた店は3月に卒業予定だった)べきであったが、そういう気持ちにはなれなかった。この物件の決着がつかないかぎり、他のことは手をつけられそうにない。
そうとは言っても、何もしないわけにもいかず、クリスマスに池尻さんに提出した店舗計画書をもう一度練り直した。シミュレーションを膨らませ、現実的なスケジューリングを組み、メニューやオペレーションをディテイルまで落とし込んだ。開業資金について国庫や行政など第三者からの借り入れは予定していなかったので、金策に奔走することはなかったが、限られた予算をどのように活用し、どのように割り当てるか、机上で細かく試算した。
定期的に橘さんのところにも寄った。
「いかにも“金と女が好き”っていう感じの人がたまに内見に来てますね」と橘さんは僕に言う。
僕に入ってくる情報はその程度だった。どれくらいの応募があって、“いかにも金と女が好き”という人以外にどういう応募者がいて、状況はどこまで進んでいるのか、そしてどう進んでいくのか、さっぱりわからなかった。
2月に入っても池尻さんからの連絡はなく、僕はしびれを切らした。今、どういう状況であれ、もう一度池尻さんに時間をもらい、練り直した店舗計画書の内容を報告したいと思った。
「わかりました。こちらからの報告もあるので、来週の13日の金曜日にお時間いただければと思います」
と池尻さんは言った。
2015年2月13日金曜日は僕の33歳の誕生日でもあった。誕生日だとかもともと淡泊なほうで、とりわけ自分の誕生日なんて気にもとめないのだけど、今年は意識せざるをえなそうだ。
ハッピーorアンハッピーバースデー。