Journey×Journeyと山本ジャーニーの冒険-独立・開業と「旅食」の航海日誌-

秋葉原の多国籍・無国籍のダイニングバー「Journey×Journey」。独立開業までの過程とオープン後の日々を綴る、山本ジャーニーの営業日報。

山本ジャーニーの「経営者」への冒険

「経営者」とは何なんだろうか、と時々考える。

考える度に、何だかそわそわ、ぞわぞわする。自分のことを対外的に説明する時、基本的にはお店を「運営」していると言い、自分はお店の「主体者」であると言うようにしている(言うようにしている、というか、他に適当な言葉を見つけられないでいる)。

店長、マスター、大将、代表、社長、様々な表現があるし、様々な呼び名がある。いずれも妥当と言えば妥当かもしれないが、いずれにしてもこそばゆい。

 

けれど、自分の中のそうした中途半端さを払拭していかなければならない、克服しなければならないと5年目にして思っている。

 

「経営」を辞典で調べてみる。


[名](スル)事業目的を達成するために、継続的・計画的に意思決定を行って実行に移し、事業を管理・遂行すること。また、そのための組織体。
引用元:goo辞書

 

とあり、ここにある「事業」とは、

 

生産・営利などの一定の目的を持って継続的に、組織・会社・商店などを経営する仕事。
引用元:goo辞典

 

とのこと。A=B=C=Aのような図式で、「経営」は「利益の最大化のためにヒト・モノ・お金を活用する活動」と言われ、ここからさらにシンプルに「事業を永遠に継続させること」と定義されることが多い。ゴーイングコンサーン(「継続企業の前提」という概念)もこれに通底しているし、「営み」を「経ける(続ける)」という日本語的な意味合いからもそれを指し示している。確かに続けていかなければ「営み」も何もない。

別のサイトでは「経営」という言葉にアプローチするために、「運営」という言葉との対比で捉えていた。経営者は収益の最大化のために体制そのものを作り上げるのに対して、運営者はすでに与えられている体制をいかに効率よく運用するかを考える。例えばスポーツ大会で考えてみると、大会運営者は大会運営に必要な予算や人員が与えられていて、とにかく大会がスムーズに進行するために全力を尽くすのに対し、経営者は大会を行うことで得られる収益を気にし、参加者を増やすにはどうしたらいいか、来場料金を値上げするか、人員を削減するか、そういうことを検討する。と、書かれている。

 

あくまで極端な喩えではあるけれど、言わんとすることはわかる。勿論、全ての雇われ店長さんにあてはまるわけではないし、経営者よりも経営者目線で取り組んでいる方も多いとは思うけれど、雇われ店長(運営者)とオーナー(経営者)の違いに似たようなものだろう。

 

 以上のような一般論は理解はできる。もっともだと思う。

 

けれど、じゃあ自分が「お店を永遠に継続させるために経営しているのか」と言うとそんなこともない気がするし、自分の中の第一義に収益があるようにも思えない(であるのであればもっと収益のことだけを考えるはずだ)。

 

 と、こういった具合で、「経営」という言葉は自分の中で輪郭を崩し、ぼやけた存在になる。多分、俺、経営者じゃないし、経営してないなあ…となってしまう。そもそも「経営」なんていう大それた言葉が必要になるレベルにいないし、そんな規模でもない、という前提と自覚も勿論ある。


不思議なのは「でも、それじゃあもうこの先はないな」という危機感も持っているということ。自分はもっと「経営者」に近づいていかなければならない、と。では「経営者とは何なのか」と堂々巡りをする。今もしている。

 

そんな中、店や事業の経営というよりも、「もっと自分は自分自身の経営者であるべきだ」ということを最近思う。確かに自分は自分の営みを経けていかなければならないし、「継続の前提」(ゴーイングコンサーン)は言うまでもなく、前提としてある(仮にどうであれ、なんであれ僕は当たり前に継続的に普通に生きていく)。利益の最大化のためにヒト・モノ・お金を活用するために活動していかなければならない(「お店」にとっての「利益」は金銭的収益かもしれないが、「自分の人生」にとっての「利益」は金銭的収益だけではなく、もっと複合的で複雑的なものだ)。

 

 

 自分自身を経営していくにあたり、必ずしも「お店」が必要だとは思わない。ただ現状、自分を自分として継続させ、また自分としての利益を最大化させるためにはJourney×Journeyさんが最良のパートナーであるのは間違いない。とりあえずこの4年間は破局も破産もせずに済んでいるし、当面は今後も仲良くやっていきたいと思う。基本的に望んだとおりには動いてくれないし、時折、思わぬ形で手痛い仕打ちもくらうけど、Journey×Journeyさんが見せてくれる景色は美しく、繋いでくれる繋がりは尊く、そして、学ぶところは多い。


だから、「創業者にとって会社や事業やお店は自分の子供のような存在だ」と言う人がいるけれど、僕はあまりそうは思わない。確かにその側面もあるかもしれないが、同時に親友的であり、恋人的であり、伴侶的であり(未経験だが)、あくまで多面的で、あくまで自分とJourney×Jouneyさんはフェアな位置づけにいるような気がしている。僕が19歳の時、カンボジアを訪れた時、当時7歳か8歳だった少女に「君はどうしてそんなに英語が上手なの?」と聞くと、少女は「I learn from you,you learn from me」と言った。まさにそういう感じだ。自分たちは同じであり、同時に、自分たちは違う、ということを理解する。どこまでいっても同じであり、どこまでいっても同じではない。の理解に努める。大切なのはリスペクトであり、必要なのはリスペクトでしかない。


会社や労働組合、私立学校や神社など一定の社会活動を営む組織体が「法人」と呼ばれる理由も今ではよくわかる。付随して、「法人格」という言葉もあるが、まさに言い得て妙。現状、僕は個人事業主であり、Journey×Journeyさんは法律上、法人格を持った法人ではないのだけど、自分の中のニュアンスにおいてはJourney×Journeyさんは独立した人格を持った、限りなく「人的な存在」であり、彼(と言うか彼女と言うか)は2号店という弟ができて、DIO(内装業)という従兄妹を持ち、車やJTVや各SNSやホームページなど親戚関係を築き、「家族」を形成している。

 

大企業に勤めている社員の方々が送別会で、社長や役員など経営陣に感謝するシーンは皆無に等しく、お世話になった上司や同僚または同期、あるいは所属した部署、もしくは「社」そのもの、つまり「法人」に感謝を述べることがほとんどだ。このあたりが所謂の「経営者の孤独」に通ずることなのかもしれないが、逆に言えば、自然なことなのだろう。

 

 僕とJourney×Journeyさんがお互いにそれぞれの人格を持ったそれぞれの存在であるならば、ゲストにとっても、スタッフにとっても、等しくそうであることが望ましい。J×Jにとって、僕がどうのはさほど重要ではなく、重要なのはあくまで「J×Jがどうであるか」、だ。そのためのステップを踏むことが自分が「経営者」になるためのアプローチであり、この長文はその決意表明だ。

 

というわけで、Journey×Journeyさんはけして「我が子」ではないのだけれど、そうとは言っても、4月13日土曜日は彼(でいいや)の4歳の誕生日パーティーであり、一番彼と近しい僕としてはできるだけパーッとお祝いしてあげたい。皆様のご参加も心よりお待ち申し上げます。