「どんなお店にしたいんですか?」というオーナーからの思わぬ問いに、「多国籍料理のダイニングバーをやりたいんです」と答えた上で、自分が今までどのように生きてきたかを赤裸々に語るという展開になった。「相手の出方を伺いながら、カードは慎重に切る」というつもりでいたが、オーナーの橘さん(仮名)はそれを許さない、言い知れぬ凄みがあった。
10代の頃、旅に魅了され、
21歳の時に旅をコンセプトにしたお店を持つというデザインを描き、
20代はそのための下地作り、
30歳になる年に一年間の世界一周、
帰国後は不足点の改善、加え、調整とトライアル、
そして、今。
かいつまんで話すことに努めたが、結局、長い話になった。
橘さんはその間、口を挟むことなく、僕の話に静かに耳を傾けていた。ひととおり話終えたあと、橘さんがまず言ったのは、
「私の生活は半径500m以内で完結してます。それで満足しているし、知らない世界を知るということに特に興味もない」
ということだった。
瞬く間に暗雲が広がった。料理に対してストイックに取り組んできた人からすれば、自分のキャリアなんてふざけているととられてもおかしくない。
「でも羨ましいなと思う気持ちもあります。カナダで日本人の女の人が失踪した事件があったでしょう?そのニュース、山本さんはご存知ですか?」
話の展開がつかめないまま、「ええ、ニュースで見ました。確か、女医さんがイエローナイフにオーロラを見に行って、そのまま行方不明になったっていう…」
「私ね、その人羨ましいなって思うんです。だって素敵じゃないですか。オーロラを求めてそのままふっと消えちゃうなんて。私もビールを1ダースくらい持ち込んで凍てつく森の中で、凍てつく空を眺めながら死にたいものです」
凍てつく森の中に迷い込んだのは僕ではないだろうか、と思う。
「それに私、雪が好きなんです」
「…。それはどうしてでしょうか…」
「だって、汚いもの全部覆ってくれるじゃないですか、雪って」
僕は確信する。自分は凍てつく森の中に迷い込み、上空にはイエローナイフのような凍てつく空が広がっている。苦笑いで乗り切る以外に他に手立てがない自分の今の状況にも凍りつく。「苦笑い 画像」で検索したら今の自分の表情が上位表示されるだろう。これぞ、まさしく、苦笑い。ちびまる子ちゃんの世界の中でよく見かける、苦笑い。
態勢を整えられないまま、マヒャド的沈黙が続く。苦笑いすら徐々に辛く、徐々に苦悶へと。ジョジョにジョジョ、ジョジョにジョジョへ。
「実は2年前くらいに一度辞めようかと思ったことがあるんです。でも、その時は常連のお客様に反対されまして。結局、今まで続けてきました。もう5年になりますね」
これ、どうなる?
「今、正直迷ってます。続けるか、辞めるか」
これ、どうする?
いや、ここは静観。
焦らない、煽らない、促さない。
「田舎に帰って、晴耕雨読の生活も悪くないなって思いますね」
ここだ、と思った。何の足掛かりもないこのねずみ返しのような断崖絶壁にピッケルを突き立てるのはここしかない。
「橘さん、本、読まれるんですね。どういった本がお好きなんですか?」
本であれば大体のジャンルを網羅している。どう来られても何かしらレスポンスできるだろう。ここを会話(普通の)のフックとするのだ。
「最近はもっぱら哲学書ですね」
なるほど。
な、なるほど。
「な、なるほどですね…」と僕は言う。