Journey×Journeyと山本ジャーニーの冒険-独立・開業と「旅食」の航海日誌-

秋葉原の多国籍・無国籍のダイニングバー「Journey×Journey」。独立開業までの過程とオープン後の日々を綴る、山本ジャーニーの営業日報。

『Journey×Journeyの冒険』への冒険vol.1【山本ジャーニー、自己紹介編①】

前回の投稿記事に書いたように、このブログでは秋葉原にオープンした多国籍料理店Journey×Journeyの物件契約からオープンに至るまでの過程を時系列に沿ってなぞっていこうと思っています(その理由はこちらから)。

 

今日のブログはその物語の初回ということで、まずは自己紹介からはじめようと思います。

 

名前は山本ジャーニー。昔(8年前、僕が25歳だった頃)、共同出版小説を出したことがあって、その際に使ったペンネームを今でも使用しています。もともと山本トマトというペンネームを使っていました。特に理由はないのですが、僕は食べ物の中で唯一「トマト」が苦手で、あえてその苦手なものをペンネームにしようと思い立ったのです。ところが、意図せず「吉本ばなな」さんの模倣になっているとのちに気付き、今後は逆に好きな言葉にしようと思い、「山本ジャーニー」とすることに決めました。

その小説『トマト時々夕陽、のち三日月』は料理や食に関するものではなく、純度100%の恋愛小説です。たまにふとした時にページをめくることもあるのですが、もはや直視できません、恥ずかしくて。

トマト時々夕陽、のち三日月 (新風舎文庫)

トマト時々夕陽、のち三日月 (新風舎文庫)

 

 大学生の頃に旅人に憧れて、長期休暇の度にバックパックを背負ってアジア中心に歩きまわってました。見るもの全てが新鮮で、食べるもの全てが初めてで、出会う人は皆曲者ばかり、毎日が刺激的でエキサイティングでした。メールを一通送るのにウィンドウに浮かぶ砂時計がくるくると回るのを10分くらい眺めていなければならない、15年前はそうした通信環境であり、限られた情報の中で手探りで旅をしてました。その暗中模索のさすらいが当時の自分には何物にも代え難いエンターテインメントでした。僕はすっかり、ずっぽり、旅の魅力にのめりこんでいきました。

 

「いつか世界を一周したい」と思ったのはその頃です。同時に「旅や世界をコンセプトにしたお店を開きたい」とも思いました。35歳までに、という区切りをつけて、その後の自分をデザインしました。

 

大学卒業後は大手のコンビニチェーンに就職。サラリーマンを経験したい、そして、どうせやるのであれば厳しい環境に身を置きたいというのがその会社を選んだ理由です(当時その会社はブラック企業の筆頭として名を馳せてました)。また、飲食店とは異なるとは言え、店舗マネイジメントを学べるという点も魅力でした。しかし、第一志望の会社(インク会社)に最終面接で採用を見送られた、というのがこの進路を選んだ(選ばざるをえなかった)決定的な理由です。もし、このインク会社の役員(三國連太郎に似ていた)に気に入られていれば、今頃ゴールデンウィークをどこでどう過ごすかをウキウキしながら考えていたかもしれません。

 

その大手コンビニチェーンでは3年半、勤務しました。壮絶な職場でしたが、この3年半で「モノを売る」ということ、スタッフとのコミュニケーション、また損益計算書など経理関係の基礎の基礎は垣間見れたような気がしています。

 

退職後はフリーターとして飲食店で3年働きました。まわりの友人が社会で活躍する中、フリーターになるというのはそれなりの勇気と覚悟のいる決断でしたが、大局で見ればその選択が最も妥当であると思ったし、今でもそれは賢明だったと思っています。チェーン店での勤務の傍ら、エスニック、フレンチ、鉄板焼きのお店を掛け持ちで一年ずつ勤務しました。この3年間を使って様々な業態に触れることができたこと、また、自分の時間を作って料理や食の勉強ができたことは今の自分に大きく寄与しています。説得材料の一つ、またアクセサリーとして調理師及びフードコーディネーター3級・2級の資格もこの3年の間に取得しました。

  

26歳までバーモンドカレーもまともに作れなかった自分が、3年後にはスパイスからチキンマサラを作れるようになりました。そして、料理や食文化を主題に据えた世界一周に出ました。

 

2011年11月22日、ニューヨークへ。